Jerry Emma Laura Piano

Mina, Dalida, Barbara, Laura, Lara....美人大好き! あっ、Mihoが一番好き

LPレコードの紹介 (No.059) BARBARA

2016年07月11日 | LPレコード紹介

「ラウラ、暑いなぁ」

「暑いよ。風もないし、今日は最高の暑さみたいだね」

「そうそう、ジェリー爺さんはどこにいるの」

「おとしゃんの部屋で、エアコンで涼んでいるよ」

「アタシは寒いのはやだからそっちにはいかない」

「そうか、じゃ今日のレコード紹介は、おとしゃんがやるよ。解説をタイプすればいいから」

「そうしなよ。じゃね」

 今日は、「黒のイメージ」のバルバラです。すでにNo.009とNo.020で彼女のLPを紹介していましたが、これで三枚目のLPです。そこで蘆原英了さんの解説で、手抜きの紹介です。

 

 このレコードはバルバラの来日を記念して発売されるものである。これを書いている現在はまだ来日しておらず、このレコードが発売される時には彼女はもう日本を立っている。したがって、ここでは日本における彼女のことを書くことは出来な
い。しかし彼女が多くの日本人に愛され、多くの日本人が彼女の来日を待ち望んでいたことは事実である。彼女はフランス本国でよりも、日本でのほうが早く認められたということができる。彼女のレコードは、パリでより日本のほうが先に売れだした。これは稀にみるケースである。
 バルバラはわれわれの好みにあう。日本人の好みにあうのだ。われわれは歌詞の内容を重じる。直接的にフランス語がわからないにしても、訳詞をとおしてその歌詞の内容をつかむ。その内容はたいてい悲しいし、苦しみを訴えている。陽気な歌もないではないが、それらはむしろ珍しいことに属する。バルバラの歌は、われわれの胸にぞくぞくと追ってくる態のものだ。
 彼女の感じは、黒といえばいい。赤でもない、白でもない、まして黄でもなければ、青でもない。やっぱりどうしたって黒である。黒がバルバラで、バルバラ自身、黒い衣裳に身をかためている。憂営、哀愁、苦悩、そういったようなものが、彼女の歌の基調である。
 彼女は自分で作詞作曲し、そうして歌っている。初期の頃は他の人の作ったものもよく歌っていたが、1964年以来、自作ばかりを歌うようになった。もっともリサイタルや、一度に20曲以上も歌わなければならないような場合には、プログラムに変化をつける必要上、他の作家のものを歌うこともあるが、それはむしろ珍しい。自作ばかりでかためて、そして少しも飽きさせぬところが、むしろ自慢であろう。
 バルバラはシャンソン歌手の種類としていえば、文学的シャンソンの歌手とか、シャンソン・ア・テクスト(歌詞を重じるシャンソン)の歌手とか、あるいはディズーズといえるだろう。ディズーズというのは、歌詞を重じて、その各言葉をよく生
かし、歌うというより語るといった歌手のことである。これはイヴェット・ギルベール以来の伝統による歌手のタイプである。だからこういう歌手の唄は、フランス語の勉強にたいへんふさわしい。一つ一つの言葉が見事に発音されているからである。
 バルバラは一般大衆向きの歌手とはいえない。高級ファン向きの歌手である。というのは、彼女の唄には大衆に迎合したものがなく、その内容が高い評価を持っており、そのレパートリーは常に洗練されているからである。ここらで彼女の経歴を簡単にあげておこう。バルバラは女性歌手には珍しく、その生年月日をかくさない。 1930年6月9日、パリに生れている。本名はモニック・セルフで、バルバラというのは芸名である。この芸名はジャック・ブレヴェールの“バルバラ”からつけたものと思われる。
 父親はアルザス生れのフランス人、母親はオデッサ生れのロシヤ人、仏露の混血児である。父親の職業は明らかでないが、父親の職業のために少女時代に旅ばかりしていたという。彼女は過去のことを語りたがらず、また過去を振り返ることを好まないが、一家は今度の大戦でナチスの難を避けて、22回も居をかえなければならなかった。
 早くから歌うことが好きで、歌うことばかり考えていた。そして何度も歌っていた。歌わなければ彼女にとって人生はなかった。 15才の時、マダム・トマ・デュスケの家をヴェジネに訪ねて弟子入りし、声楽の勉強をした。非常な熱心な弟子で、よく勉強した。 18才の時、パリの音楽学校の試験を受けた。その時、モンテヴェルデイの歌劇“オルフェオ”の女役者のレシと、映画“悪魔は夜くる”の中のバラッドとポール・フォールの役にシャン・ユボーが作曲したものを歌った。彼女がこの仮試験のために歌った唄のレパートリーは、非常に驚くべきものであったと、今も語り草になっている。校長のルイ・ベーツは彼女はミュージッ
ク・ホール向きだといって、とにかくボーレ先生のクラスに自由聴講生として入学許可した。学校ではシューマン、フォーレ、モンテヴェルデイなど学んだ。数力月後にベルギーのテレビに出演するチャンスが与えられた。 ここではもっと新しい曲を選び、トレネ、ブレル、ブラッサンスの唄を歌った。
 20才の時、再びブリュッセルにいった。それまでに36もの職業を生活のためにやった。ブリュッセルでは自身キャバレーを経営し、自分で歌った。他にも芸人を雇ったり、飲食物を提供したり、食勘定をしたりしたが、事業は失敗に終った。その上、若い学生の人形つかいと恋をして、子供までこしらえてしまった。男と別れて、52年にパリヘ戻ってきた。そしてモガドール座のオペレ ット”帝国の董”にマヌカンとして出演した。それから左岸のキャバレー“エクリュース”に皿洗いとしてつとめた。当時、そこではブラッサンスが歌っていたので、彼の知遇を得た。 56年になってーその間、散々の苦労をし、1年間引退していたこともあるーづ作詞作曲に覚え、それをやりだした。しかし作曲法を学んだわけでもなく、譜を書くことも出来なかったから、ピアノをひきながら歌い、それをテープ・レコーダーに吹込んだ。作詞してから作曲するのでなく、歌詞と音楽を同時にこしらえる。
  57年にシエ・モワノーというキャバレーのオーディションを受けて合格し、そこに部屋を貰い、そこに住み、夜は店で歌った。結局そこに1年間いた。 ’58年になってこクリューズで歌うようになり、6年間そこで歌っていた。ここでようやく彼女の前途は明るくなる。シュヴァリエはじめ。多くの人に認められだしたからである。 レコードも吹込ませてもらうようになった。 ’60年にはブラッサンスの唄ばかり歌ったレコードで、フランス・ディスク協会のディスク大賞をもらった。それからは運が向きだして、ボビノヘ出演できるようになった’64年になって、フィリップスにレコードを吹込み、以来、今日までフィリップスの
専属歌手となっている。 この年の10月にはボビノへ二番目スターとして出演した。一番目の大スターはブラッサンスであった。この時彼女ははじめて二番目スターとなったので、それまでは前座であった。そしてそれまでは他の人の作品を歌っていたが、この時から自作ばかり歌うようになった。’65年には自作ばかり歌ったレコードで、シャルル・クロ協会のディスク大賞を得た。そして同じ年の9月には、ボビノに今度は大スターとして出演した。これからは彼女には栄光の道があったばかりであるが、コマーシャル・ベースからいえば、成功とはいえなかった。 レコードは一般的にならず、高級すぎて売れなかった。 しかしこの時期において日本でも彼女のレコードは発売され、フランス本国でより以上に売れて、本国を驚かせた。
’69年2月にはオランピヤに大スターとして出演した。オランピヤはパリ最大のミュージック・ホールで、ここに大スターとして出演することは、シャンソン歌手として第一級であることを認められたものであり、多くの聴衆を集め得る人気があるということを証明したものである。バルバラが遂に勝利を獲得したのである。 そして’70年の1月下句から2月終りまで、ルネッサンス座でレモ・フォルナリの芝居“マダム”に主演した。これはあまり成功しなかったが、彼女の主役は自分で作曲した唄を歌った。そして同じ’70年の10月には、デート・ド・ラールという高級キャバレーにジュリエット・グレコのあとを受けて初出演した。

 

「ラウラ、終わったよ。遊ぼうか」

 

Barbara - Göttingen (1967)

 


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