経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

2つある

2010年04月05日 | Weblog
人は、内輪のために合理化を進める。

家の掃除でごみが外へ掃き出される時のように何のためらいもない。
そのしわ寄せは、外のあなたの大切なお客様へ降りかかる、
としたらどうか。どうだろう。

なんということはない。自分の事業での合理化の量だけ、
お客様にツケを回わしていることになるのだ。


会話やメールなどで、御礼や感激、感動をテンプレートや定型文を
貼り付けるほど内輪の合理化・効率化を求め、
それらを競い、誇る、忙しい経営者たちにあえて言いたい。
何か、大きなことで間違っているのではないか。


手間暇だけがとか、あるいは手間暇かけることが
イコール、感激、感動の証だとまではいわないが、
少なくとも定型、テンプレート、打ち返しの簡略メールで、
「かねがねからあなたのことに関心を持っていますよ」といったことが
相手に伝わり、相手に感動を与えるということはまずあり得ない。

むしろあなたの感動や感謝の気持ちは作り物で、
「これっぽちもお客の私に関心などない、単に社交儀礼です」
といったメッセージを相手に伝えていることになるのだ。

忙しい、という主張は、
1に自分は売れっこだ、もてっこだ、ということを
相手に吹聴していることになり、同時に「
それに対して、君たちは、あっはは」とか、
「忙しいのだから余計な時間とらせないでくれよな」

とかいったメッセージを伝えていることにもなるのだ。
むろん、どう受け取るかは聞いた相手の問題だが。


2つに、先に述べたように、自分以外の人間を軽く見ている、
と相手が受け取る可能性が高いということだ。

言い分はあろう。
だがそうした言い訳は、あなたの軽さと何にごとにつけ
人に責任転嫁する人だという3つ目を生じさせる。

この2つ、ないし3つにより、いつも私が言う見えない消費者は、
ひよっとしたら、そのあなたのつれなさに憤慨し、
あなたの企業なり、お店から離れていっていたお客ではなかろうか。

さらに、人の心や行動までそうしたモバイルのテンプレートで
働かせてられている従業員はどう感じるだろう。

自分たちが使えているのは人間ではなくモバイルではなかろうか、
経営者が自分をリモコンで動くロボットとしか見ていないのではないか

そうしたことを思ったとしたら、どうだろう?
たちまち働く意欲を喪失してしまうのではなかろうか。

一方経営者としては教育研修費をかけて社員のモチベートをしている。
といったことであれば、まさにマッチポンプではないか。


人が得るものには2つある。見えるものと見えないもの。
人が失うものには2つある。見えるものと見えないもの。




見えないから落とし穴

2010年04月03日 | Weblog
価格競争が高じると、経営者というものは、一応に利益確保に躍起になる。

そのため品質より原価に意識がいく。その結果、品質が落ちる。
そしてまた恐いことは、廃棄処分に目をとがらせ始めることである。
これまでこうした事例を幾度となくみてきた。

S市のビジネスホテルの経営者は、痛んで廃棄した食材を、
「焼くなりにるなり再加工すれば、まだつかえるじゃないか」
と板長を叱った。
板長が退職。
 その後、個のホテルは食中毒を引き起こし、新聞に報じられ
 不振に陥りその社長は退任することになる。


 ある中堅食品スーパーの話。
鮮魚売り場や精肉売り場の冷ケースの半分近くのスペースが、
二次加工食材で占められた時期が続いてた。

表向きは「2次加工食材充実による差別化」であるが、実は・・・。
トップから利益低下を責められた担当部長が、追いつめられ
配下に古い食材の再加工を指示した結果である。

2次加工とは香辛料や味付け加工して再販すること。
再加工日時で製造日のラベルが貼られる。
だから消費者が気づくことはない。
食べるときは火を通すから食中毒が起きることもまずない。

ところが、である。
こうした2次加工処理は、パートたちの仕事である。
彼女たちは、仕事だから命じられた通りやる。
しかし買い物をするときには消費者であり一家の主婦。
で妥協は決してしない。結局このスーパーは、倒産した。

表向きは競合激化だが、真相は違う。
客離れによる販売不振である。客離れの理由は巷の"噂"である。

これが、従業員が自分の店で買い物をしない本当の理由とみてよい。
従業員が自分で働いている店で買い物するかどうかは
愛社精神の云々なんてことじゃない。貴重な情報提供なのである。

せっかく従業員が自店で買い物をしないという行動で、
見える形として経営者に情報発信をしても、
トンチンカンな対応でその情報を消し、
まったく的はずれな対応をし、傷口を広げる。
「経営者よ、何をもって情報、情報といっているのか」
と言いたい。これをトンチンカンといわず、なんといおう。

だがこうした話が、実は商店街や個々の店で何気なく行っている
バーゲンセール、シール3倍セール、イベントなどと
どう違うのかと問われ、「違う」と断定できるであろうか。


落とし穴の本質は、見えず隠されていることにある。

人も自分も陥りやすい穴を事前に見越し、あるいは人が落ちるのを見て
 避ける人こそ賢明な経営者といえるのではないか。

コピーの運命

2010年04月02日 | Weblog
コピーは本物ではない。
いくら努力をしても本物になれないのがコピーの運命である。

このコピー指向が、画一・均質、没個性を呼ぶ。
そしてどこでも同じ様な街づくり、むら興しが行われる。
やがてむしろ地域のアイデンティティは削ぎ落とされ、
町や村の風景は似通ってくる。
そして以前より地域格差が開く、という皮肉な結果を生じるのである。

最近、全国各地の特産品開発を一堂に集めたフェアをのぞく機会があった。
率直に言ってがっかりした。どのブースも同じ様なのである。
同じ商品であったら、特産品は特産品でなくなってしまう。
どこでも見掛ける既存商品を特産品とネーミングした包装紙で
包み直したもの、同じ生産物について、複数の産地が日本一を
主張しているなど、笑えない風景をいくつも見た。

どうやらむら興しもまた街づくりと同じ愚の道を歩んできているようである。

村おこしのはしり時代のこと。
池田町がワインで成功すれば我が町もワイン。
大分県が一村一品をやれはその言葉だけが全国の市町村て一人歩きし始める。
湯布院で若者達が牛を食べて絶叫すれば、
あちこちのイベントで牛が殺され絶叫が始まる。


今でもこの類である。
同じ人は存在しない。地域も同様である。
風土、歴史、伝統、文化等々が異なるから固有の地域の概念が存在する。
この違いを「地域のアイデンティティ」と呼ぶならば、
はたして私たちの町や村のアイデンティティとは何か。
それを考え、地域の個性・独自性を見つけ磨き上げ、
際立たせていくことがむら興しである。

そして町や村が顕在的あるいは潜在的に持っている固有の資源、条件を生かし、
具象化したものが特産品である、と考える。

町や村のアイデンティティを明確に特定し浮き彫りにしてアピールすることは、
住民や町村外に住む当地出身者やゆかりある人々に
故郷への郷愁・ふるさと愛、郷土意識に大きな呼び水を与えることになる。

また、遠く故郷を離れていても故郷との強い結びつきがあり、
故郷の人々との交流を通じと心を一にすることができる。
これが住民の定住意欲を強め、域外居住者の帰郷の契機にもなろう。
さらに特産品を望郷と話題のシンボルとして
故郷を離れ住む人々の間で相互の心の交流がなされるとしたら、
それこそ地域興しの最高の喜びとなろう。

住民一人一人が自分の故郷を見つめ直し、
この地域固有の自然、風土、景観、歴史、伝統、文化、産業などの中から
かけがえのない郷土の誇りと自慢となるものを住民各自が続々と見つけ出す。
もちろん顕在しているものだけでなく、
各人の自発的な活動により潜在的資源をも発見していく。
そしてそれらを愛で育み、大切に次の世代へ伝承していく。
そういった夢と希望に満ち溢れたワクワク感。
こうした地模倣とコピーでは味わえないものこそ
域興し、むら興し、街づくりの本来と考える。