経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

体制と情報

2009年11月08日 | Weblog
  
体制は民を統治して、始めて存立し得る。
統治に際し、物理的にも、思想的にも民がばらばらではやりにくい。
そこで物理的な対策としては、
各地に分散して住んでいる民を一箇所に集めるために町を作り、
隣近所をグループ化し、適当な者を庄屋に任命し、
代行者として統治させるといったやり方をやった。
町に集めておけば民の動きもつかめるし、
不満分子の監視も、やりやすいというわけである。
民同士が相互に牽制し合うという効果もある。


思想的施策としては、体制が民衆をひとからげにして、
傀儡するのに都合の良い宗教なり、教えを導入することである。

時として、体制は傀儡に都合のよい教えを
外国から仕入れてきている。その一つが儒教。
これは体制の都合(ニーズ)があって採用されたものである。
日本に入ってきたのは、五世紀初め応神天皇の頃伝来とされる。
この教えは厳しい年貢を取り立てる必要のある体制にとっては、
実に都合のいい教え、縛りに使える。

儒教嫌いで知られる、あの劉邦すら、
体制維持に都合のいい局面では大いに儒者の教えを活用している。
同様。儒教そのものが体制オンリーの教えである、といった
一面的な意味ではない。この点誤解のないよう。

信長、秀吉、家康もそうだが、建国以来、一向宗など、
宗教対策に頭を悩ましてこずっている。

こうみればなぜキリスト教が輸入され、
そしてご禁制になったのかわかるというもの。

体制のトップの命令よりも、信じる神の教えを仰いだのでは、
面目丸つぶれ、そもそも統制などできはしない。

かといって逆に、民が宗教に限らず何も信じるものがないというのも、
体制から見て不気味であり、纏めるのに大変である。
また放っておいて、体制に抗う諸々の宗教に入り込まれても困る。

そこで上に述べたように、自らの統治に都合のよい思想なり、
宗教を輸入してて、改宗させ、心の統一をもくろんだわけである。

要は体制は神仏のご意向すら道具として使ってきたということである。
こうしたことは、今でも変わらず、借り物の経営理念で、
愛社精神を培わすといったことは経営の世界では珍しくない。


以前述べた古事記にみられる通り、
日本に神々がおびただしく存在していた頃は
日本全土を統一した国家体制の存在概念がなかったことが覗える。
のち国家が統一されたようとされたとき、
ばらばらな民心を束ねるためにも、統一した神を掲げる必要があった。

しかし在来の神はおびただしい数。で一神制を取ることができず、
体制はやむなく、別の宗教を持ってきて、統治する方策を講じた。
それが応神天皇以来の仏教、信長時代のキリスト教である。

したがって体制は、もともと仏教の本質や全容を輸入する気はなく、
それらの中から体制にとって都合のよい部分を切り貼りして
都合のよい和製仏教として融合化されたものとみてよい。

しかし、あとになって体制から流れたそれらに疑義を抱いた者が
自ら中国や韓国に渡り、初めて仏教の実態を知ることになった。

情報統制、そして情報開示への流れは、今も、昔も変わらないということだ。


以降、宗教の世界も体制派とそうでない派と
大きくはふたつの流れができたこと。
体制と反体制の二面的流れで歴史の織りなしは構成される。
これは昔も今も変わらぬ普遍的な流れといえよう。

このことが教訓となり体制をして鎖国へ進む引き金の一つにとなった。
したがって我々が学校の歴史学んだ様な完全な国交断絶ではない。
これは現代であの国、この国も同様である。
鎖国の内実、本質は体制以外の諸団体、個人に対するものであり
民に対する情報統制であることを知っておくべきである。

ここで少し横道にそれるが、
「鎖国」のもつ意図について簡単に触れておきたい。
 結論からいうと、鎖国は体制に都合の悪い物なり思想は断ち、
体制に都合のよいものは通す、という
フイルターの機能として設けられたと理解すれば判りやすい。
それと海外取引の利権独占が狙いであるから、鎖国どころか
むしろ体制の利益に則した交流は積極的に行われたとみる。
そう考えないと体制が鎖国令を出した積極的メリットがない。
それでは、鎖国令発令そのものが不自然になる。


情報操作は体制の常套手段。
否、情報そのものが操作性向を内包しているものいっていい。

すなわち情報には、流される情報と流されない情報があり、
その双方ともに、流す側の意図が含まれていることを
当たり前として、受け取り、その部分を押さえることで、
逆に精度の高い情報になる、という流す方にとっては
皮肉な反面を持っていることも事実である。

受け取る側からみたら、情報を鵜呑みにすればえらいこと。
だが、情報判断学を心得ていて読み取る力があれば、
常に確度/制度の情報が手にいる、ということになる。