泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

雲海のような幻想的な風景が広がる 「賀名生(あのう)梅林」

2017年03月16日 20時38分48秒 | 散歩

奈良県五條市西吉野町には約30haの梅林があります。奈良県梅林ランキング ベスト3は、 1位 賀名生梅林 (約20,000本)・ 2位 月ヶ瀬梅林 (約10,000本)・ 3位 広橋梅林 (約5,000本) です。「賀名生(あのう)梅林」は丁度見頃で、多くの方が来られていました。

今回は、雲海のような幻想的な風景が広がる「賀名生(あのう)梅林」について紹介したいと思います。

「賀名生(あのう)梅林」は、20,000本の梅が丘陵を早春の陽光を浴びて、純白や淡い紅色の2万本もの梅花が咲き、雲海のような幻想的な風景が広がっています。口の千本、西の千本、奥の千本などの景勝ポイントがあります。雲海のように梅花がほころび、ほのかな香りの中約2時間ほど散策しました。とても、気持ちがよかったです。

「賀名生(あのう)」という地名は南朝時代に付いた由緒あるもので、周辺には賀名生皇居跡や歴史民俗資料館があります。

昔この地は「穴生(あなふ)」と呼ばれていましたが、1351年10月足利氏が南朝に帰順し、多くの公卿や殿上人が賀名生に参考候して北朝が否定されたので、 翌正平7年の正月、後村上天皇は「願いが叶って目出度い」との思し召しから「賀名生」と改める勅書を下されたと伝えられています。当時は「かなふ」と呼ばれていましたが、明治の始めになって呼び方を「あのう」に統一されました。

「賀名生梅林」の麓にある賀名生の里、歴史民俗資料館のすぐ隣りに賀名生皇居跡があります。藁葺き屋根の素朴な建物、そして堂々とした冠木門に掲げられた扁額は、天誅組の参謀「吉村寅太郎」の筆による「賀名生皇居」の扁額が、秘められた南朝の歴史を物語っているようです。

1336年足利尊氏によって都を追われた後醍醐天皇は、吉野への途次この地「賀名生」に拠られ美しく払い清められた郷士「堀孫太郎信増」の邸宅に迎えられました。

また、1348年後村上天皇が吉野より難を逃れ、ここにお入りになられました。さらにこの邸宅は、後亀山天皇の皇居と伝えられているようです。今なお当時の面影をとどめる屋敷は、全国でも最古に属する民家で重要文化財に指定されています。

雲海のように梅花がほころび、ほのかな香りが山々を伝うように漂ってくる「賀名生(あのう)梅林」は、まるで「桃源郷」のようでした!

                                       

 

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