泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

古代の「百済の地を訪ねて(弥勒寺跡・王宮里遺跡)」(6)

2020年01月10日 15時20分38秒 | 歴史

2019年の11月中旬に、古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」の4日間、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。

前回は、古代の「百済の地を訪ねて(公山城)」(5)の様子を、紹介しました。「光州」の町を離れ、「益山(イクサン)」に行きました。

今回は昨年からの引き続きとして、古代の「百済の地を訪ねて(弥勒寺跡・王宮里遺跡)」(6)の様子を、紹介したいと思います。

〇「益山」は ,百済の最後の王都だった「扶余」を囲むように流れている白馬江から南方へ約31キロほど離れた場所に位置しています。後期百済の仏教文化の花を咲かせた益山市の「彌勒寺」址は、百済第30代王武王(ムワン/580~641年)の際に創建された東西260メートル、南北640メールの百済最大の規模であり、韓国最古の石塔が聳え立ているお寺です。真正面には解体改修が完了した西塔と復元の東塔が広い敷地に立っています。百済末期に建てられたと言われる「益山彌勒寺址石塔」は、1400年という歳月が流れるうちに石塔の6階一部までしか残されています。石塔が崩れ落ちるのを恐れセメントで固められた西塔を、2001年10月から解体改修工事に入り、2019年3月に解体工事を完了し、一般に公開されました。また、1980年からはじまった大々的な発掘調査で、東西に二つの石塔があって、その中央に木塔がある三塔三金堂の大伽藍ということがわかり、韓国の古代寺院のうち、最古・最大級のものと推測しています。また、「彌勒寺址石塔」は国宝第11号に指定されており、宝物第236号の彌勒寺址幢竿支柱があります。

このお寺は、武王と王妃が師子寺にお参りに行く途中、龍華山の下の池のほとりで弥勒三尊が現われ、王妃の願いを聞き入れ、池を埋めて塔と金堂・回廊をそれぞれ3ヶ所ずつ作ったという記録があります。この記録から分かる事実は、まず「弥勒寺」が百済の国を挙げて建てられた伽藍であったこと、湿地を埋め立てて平地を造成したこと、未来の仏である弥勒が兜率天から降りてきて、三度の説法を通じてすべての衆生を救済するという『弥勒下生経』に基づいて伽藍を配置したという点です。百済の一般的な寺院は、塔と金堂が一つずつ配置される1塔1金堂式ですが、弥勒寺跡では塔と金堂を一つのセットとして、東西に3セット配置される珍しい配置となっています。そのため、塔と金堂を一つの寺院として考え、中院、東院、西院に区分しています。中院には木塔、東院・西院には石塔が配置されています。

今回の歴史ツアーで楽しみにしていたひとつに、「彌勒寺址石塔」の四方にある石造物でした。明日香村にある謎の石造物である「猿石」の原型があるとのことで楽しみにしていました。「猿石」については以前、「飛鳥の猿石」で紹介させていただきました。2018年11月5日)

飛鳥時代(斉明天皇)に造られたと思われる飛鳥の「猿石」は、年代や制作理由も不明の石造物です。元々は、江戸時代に「欽明天皇陵」南の田から掘り出されたものでした。埋没中は鬼面の方が露出していたのか、「鬼石」とか「鬼形石」と呼ばれていた様です。材質は花崗岩です。特徴から僧、男性、女性、山王権現の名前がついており、それぞれ高さは1メートル前後です。そのうちの「女」「山王権現」「男」の3つは後ろに天邪鬼の様な顔があります。

飛鳥時代に造られた明日香村にある謎の石造物である「猿石」の原型は百済にあり、百済系の渡来人の工人集団が斉明天皇の時代に飛鳥の石造物に関わったのではないかという説もあるようです。「彌勒寺址石塔」の四方にある石造物の内、3体はかなり風化が進んでいました。残る一体の石造物の姿は、明日香村にある「猿石」とあまりにもそっくりなので大変驚きました!明日香村にある謎の「猿石」は、ここから来たのでしょうか・・・

                                            

〇「益山彌勒寺」址から約6キロくらい離れている「王宮里」遺跡地は、百済王室と直接関わりのある百済末期の武王時代に造成された重要な王宮址として知られています。

 国立扶余文化財研究所により、1989年から発掘調査をはじめて、現在も盛んに発掘している「王宮里」遺跡地は、南北490余メートル、東西約240メートルの規模の長方形の石築の城壁の内側に大規模な建物の跡、庭園、工房、トイレなど様々な遺構が出土され、「王宮里」という地名のように百済時代の王宮またはそれに相応しい関連施設があった場所ではないかといわれています。「王宮里5層石塔」(国宝第289号)は、1965年補修工事の際、高麗時代に製作された舎利装置が発掘されたことから、百済系の石塔の様式に新羅の塔の様式を一部加えた高麗初期の石塔だと建立時期を推定しています。また、石塔の周辺では金堂址と講堂址などの統一新羅時代の寺院の遺構を確認され、最初に百済の宮殿または離宮として建立されたが、百済が滅亡されてからその場にお寺を建築したものではないかと考えられています。「王宮里遺跡展示館」は、王宮里遺跡からわかる百済の建物、王宮生活、王宮から寺院への移り変わり、百済の王宮など、5つの分野に分けて展示されており、「王宮里」遺跡地は、韓国の古代王宮の内、唯一に王宮の外郭塀や建物の遺構が残っていることから、古代王宮の築造過程や王室生活などが把握できる重要な遺跡地になっています。「王宮里」遺跡地は、さすがに百済時代の王宮またはそれに相応しい関連施設があった場所ではないかといわれているように、土段等が整備され歴史的景観がとても素晴らしかったです!また、「王宮里5層石塔」も、日本では見ることができない素晴らしいものでした。

次回はいよいよ最終回となります。古代の「百済の地を訪ねて(普願寺跡・端山磨崖如来三尊像)」(7)を、紹介したいと思います。

                                                                      

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