今回は、飛鳥周辺の地である桜井市や橿原市にある、古代の「伝承地」を撮ってきました。
歴史上に出てくる、古代の「伝承地」を散策しますと、いまさらのことですが、「奈良の歴史」の重さを感じることができ、ロマンあふれる散策をすることができました!
〇「磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)」・・・奈良県桜井市
奈良県桜井市南部の古地名で「磐余(いわれ)」と言う所は、5・6世紀ごろの大和国家の政治の中心地で、古代多くの「天皇の宮」があった場所です。
この場所は、仁徳天皇の第一皇子であり第17代天皇「履中(りちゅう)天皇」の宮跡と伝承されている、「磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)」と呼ばれている所です。
「履中(りちゅう)天皇」は、5世紀初めの天皇で中国の「宋書」に見える、「倭の五王」の一人に比定するという説があります。
現在その場所は、「若櫻神社」となっていて、とても静かな所でした!
〇「上之宮遺跡」・・・奈良県桜井市
「聖徳太子」が幼少期から青年期を過ごした「上宮」の候補地の一つです。6世紀末から7世紀初頭のものとみられる苑池遺構が復元され、史跡公園として整備されています。
発掘の結果、掘立柱建物・石溝・敷石遺構などが造営されていたようです。
現在、住宅地の中にありますが、「聖徳太子」が、幼少期から青年期を過ごした場所と思うだけで、何だかワクワクするような不思議な所でした!
〇「石川精舎(いしかわしょうじゃ)・・・奈良県橿原市
仏教が6世紀中ごろ、百済より伝わりました。その後、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の両氏が、互いにいがみ合あいました。
584年に、百済から弥勒石像等が、崇仏派の蘇我馬子の手に入り、邸宅の東に仏殿を営み、弥勒の石像を安置し三人の尼を迎えて法会を行ったと言われています。
馬子の造った「石川の宅の仏殿」は、橿原市石川町にある「本明寺」が伝承されています。「石川精舎(いしかわしょうじゃ)」の呼び名が、今に伝わる所です。
小学校の裏に位置する所にありました。無住の堂が一つあり、境内には「塚」があり、ひっそりとしていました!
〇「大野丘の塔」・・・奈良県橿原市
崇仏派の蘇我馬子は、「塔」を「大野丘」の北に建て、司馬達等の会得した舎利をおさめたと言われています。その後、排仏派の物部守屋は「大野丘の塔」を切り倒して火を放ち、仏像や仏殿も焼き払ったとされています。
現在、「大野丘の塔」の跡は、橿原市和田町の集落北はずれの水田の中にあり、「トノン田の大野塚」と呼ばれる土壇と伝えられています。発掘調査の結果、土壇は確かに塔跡であることが判明しました。今は、「和田廃寺跡」と呼ばれています。
土壇の中に、礎石らしきものが見られ、1400年ほど前に仏教をめぐっての争いが、ここで行われたかと思うと、とても感慨深いものがこみあげてきました!
〇「田中宮跡」・・・奈良県橿原市
飛鳥の地に、「岡本宮」を築いた舒明天皇は、636年に「岡本宮」が火災で焼失し、現在の橿原市の田中町に「田中宮」を築き移り住んだと言われています。
その後、この地に居住していた蘇我系の田中氏は、「田中宮」の跡地を譲りうけて氏寺を築いたとされています。建立の時期は不明ですが、その廃寺跡から出土した軒瓦などから、650年前後には造営されたと推定されています。
現在は、「法満寺」という寺がその場所とされています。境内には、円形に造出された礎石が残っています。
周囲を民家に囲まれており、注意しなければ門前を通り過ぎてしまいそうな所でした。飛鳥から少し離れた場所に位置し、舒明天皇は再び飛鳥に戻ることはありませんでした。
しかし、舒明天皇の後、皇后である「皇極天皇」が再び飛鳥の地に、「飛鳥板葺宮」を築き、「日本」という国の基礎を築くこととなりました!
秋模様になりましたね
これからのお写真も秋がますます進行するんでしょうね
心なしかそれぞれの写真の光が穏やかになったような気がします。
飛鳥にも彼岸花がちらほらと咲き始めてきました。