ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2011.2.23 ハーセプチン129回目、ゾメタ49回目、ナベルビン9クール2回目

2011-02-23 22:11:32 | 治療日記
 今日も電車は遅れることなく順調。駅には都立高校入試の受験生とおぼしき中学生が沢山いた。頑張って欲しい、と思う。
 予定通りの時間に病院に入った。白血球チェックのための採血も10人も待っておらず、さらにレントゲンも殆ど待たず受付から30分ほどで内科に移動した。

 その後、採血結果が出るまでが結構長かった。今日はランチを諦めて売店でおにぎり等を買い込み、待つ。中待合に入るまで1時間半かかった。ほどなくして診察室へ。前回は当日の寝つきの悪さと当日、翌日のお腹の気持ち悪さがそれほどでもなかったので、ロキソニンだけでナウゼリンは飲まずに済んだことをご報告した。「先週のマーカーは若干上がっていたが、正常範囲内であればよいのでしょうか。」と質問すると、「下がってもゼロになることはないし、わからない。」とのお答え。ただ、レントゲン撮影では、前回1月より右の腫瘍茎はさらにスリムに、左の影もよりぼんやりしていた。「マーカーはさておき、画像上は更に改善。」と言われた。白血球も回復傾向で3600。ほっとしつつ、次週は休薬、再来週に予約をして頂く。「次回は3月9日、サンキューの日ですね。」と先生。「何かいいことがあるかもしれませんね。」と私。

 処置室に移動する。今日も先週と同じベッドを確保する。ほどなくして血圧測定後、針刺。先週から元の針に戻っているので、やはり痛い。お昼前からハーセプチン、デキサート、ナベルビン、生理食塩水、ゾメタ、生理食塩水の6本、フルコース。点滴台に6つの薬がぶらさがっていて満員電車のつり革のようだ。

 ゾメタが3年になるが、先日、ブログに頂いたコメントが気になったので、「2年すると3,4週間に1度の間隔を置くというところもあるようですが、」と看護師さんに質問した。先生に訊いて来てくださって「この病院では3,4週間に1度が基本で、そういう(2年経つと間隔をあける)使い方をしている先生もおられるが、エビデンスがあるわけではない。」とのこと。また再発予防では半年に1度、というケースもあるそうだ。いずれにせよ、万一歯科治療で削ったり抜歯したりする必要があれば、その間ゾメタの休薬をして治療が終了したところで再開するというので、心配はないようだ。それより何より歯科検診をきちんと継続しなくては、と思う。

 途中ベッドのテーブルで昼食をとりながら、4時間弱かかって順調に終了。抜針の衝撃はそれほどでもなく、ほっとした。

 会計を済ませて病院を出るまでの病院滞在時間は7時間弱。やはり疲労困憊。あまりに疲れたので、途中またお茶をして帰宅の途についた。

 今日は4冊読んだ。
1冊目は森浩美さんの「家族の言い訳」(双葉文庫)。
著者は1983年から作詞家として活躍されているが、放送作家出身ということでこんな短編集も出しておられる。初めて読んだが、ちょうど半世紀生きてきて、家族の話を書いてみたかったというとおり、8編はどれもこれも頷けるものばかり。この作品をラジオで朗読されたNHKアナウンサーの結城さとみさんが解説を書いておられるが、子どもに関するいろいろな描写もとてもリアリティに溢れたものだった。「ホタルの熱」「おかあちゃんの口紅」「粉雪のキャッチボール」が心に残った。

 2冊目は柏木惠子さんの「親とこの愛情と戦略」(講談社現代新書)。表紙に「家族/親子を考える新しい心理学」とある。裏表紙には「パラサイトでもなく依存でもない、ほど良い距離の親子関係をー」とある。柏木先生の著は研修テーマで「少子化」を扱ったときにずいぶんお世話になった。今回の著はこれまでの研究の集大成という感じで、実に興味深く読んだ。

 3冊目は香山リカさん・鈴木利宗さん(取材・構成)の「だましだまし生きる」のも悪くない」(光文社新書)。
 精神科医、大学教授、メディアで活発に発言する存在として多角的な活動を続ける香山さんの素顔。幼少時代から上京、受験失敗、就職、仕事、老い、別れなど初めて語られるその知られざる半生、とのことで手に取った。
 昨年お父様を看取られたばかりだという。インタビュー形式の語り調なので一気読み。

 4冊目は田中亜紀子さんの「満足できない女たち アラフォーは何を求めているのか」(PHP新書)。
 この本は、アラフォー上限の定義を2008年度末45歳としているので、私は入れてもらえないのだけれど、今は50歳間近の「なんちゃってアラフォー」も多く生息しているので、メンタリティを持っていればよし、ということなのだそうだ。著者は1963年生だから私より2つ下だ。それでも同じ時期に幼少期、青春期を送っているので、なるほどなるほど、と思えることが多く、これまた一気読み。元気がもらえた1冊だった。

 帰宅すると、お花宅配便が届いていた。今日は桃、菜の花、白いストック、白、ピンク、ブルーのスィートピーと豪華絢爛。桃の節句のお花が届くとは思っていなかったので、うきうきとして活けた。ついでに小さなお雛様の飾りも出した。それぞれの花言葉は「愛の幸福」「快活」「思いやり」「青春の喜び」だという。

 帰宅した夫もびっくりするほどお花だらけの家になった。特に夫はスイートピーが大好き。「花があるといいね。」と嬉しそうだった。
 今日は、先日テレビを新調した際にゲットしたエコポイントも届いたことで、新しいパソコンを注文してきたので、ご機嫌なのかも。
 お花がとてもしっかりしていて、前回のアルストロメリアも今を盛りに花をつけている。実家に話をすると、是非私も、と母が言うので注文した。来月から実家では第1第3の水曜に届くようだ。喜んでもらえるといいけれど。

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2011.2.22 皆勤賞のハードル

2011-02-22 20:27:57 | 日記
 いつものとおり寝起きの悪い息子。“春眠暁を覚えず”にはまだ早いと思うのだが、不機嫌を絵に描いたようにだらだらと仏頂面で朝食をとり、登校の支度が進まない。こちらはお弁当も仕上げ、後は出かけてもらうだけ、なのに。どうしたのか、と聞くと「今日は無理・・・」だと言う。頭が痛くてだるい、のだそうだ。ただし、朝食は完食。

 今日は部活の記事の締切日でもあった。年末から分かっていたことなのに、遅々として筆が進まない。昨日の夜たらたらと書いていたけれど、当然のことながら仕上がっていない。「原稿は、締切日後、試験前までは受け付けるけれど、試験勉強が出来なくなるのは自己責任」と顧問に言われたらしい。
 学年末試験まで既に2週間を切っている。

 熱を測らせたが平熱以下。診察券と保険証、現金を準備し、私の出勤と一緒に出かけて、クリニックに行かせようとしたが、リビングでいびきをかいて寝てしまっていたので、今飲んでいる花粉症の薬との飲み合わせを確認してもらうためのメモを置いて、そのまま出勤した。単なる寝不足か、いやはや受験の疲れが出たのかどうか。

 結局、11時近くまで寝ていて、その後、クリニックに行ったようだ。昼休みに電話をすると今帰ってきた、ということでお弁当を食べていた。先生からはいつものとおり「風邪による・・・」と言われたと言う。いつもどおりの薬も頂いてきた様子。そんなに元気なら午後からでも行けるのでは、と思ったが、そうも言えずじまいで電話を切った。

 中3になってからは、勉強はさておき、体力もつき、クラスのメンバーにも恵まれ、学校そのものは楽しかったらしく、皆勤だった。
 1年の時は、ちょうど疲れが出たのか6月頃に一度頭痛で早退したことがあった。2年の時は、インフルエンザでの欠席はカウントされないから皆勤賞が狙えるね、と言っていたら、学年末の通知表には1回遅刻の表記。そんなはずは・・・、と保護者会で尋ねたところ、合唱コンクールの日、昼の集合時間に大幅に遅刻したのだと言われた。これも寝坊の結果。この時も、恥ずかしながら過保護だけれど、私たちが出勤した後、また寝てしまうのではと、夫と交替で何度か電話をしたのだった。電話に出なかったのでさすがに起きて出かけたのだろう、と安心していた。けれど、実は起きてみたら集合時間だったようだ。焦って昼も食べずにダッシュで駆けつけ、とりあえず自分の舞台には乗ることができたので、私たちには遅刻を黙っていたようだ。

 来たるべき卒業式での皆勤表彰は3年間通しての皆勤に限るが、精勤賞なら各学年で1日までの欠席等もOKだそうだ。そんなわけで、このまま3月まで無遅刻無早退、無欠席なら精勤賞を頂けるらしい。

 母としてはちょっとばかり、いや、正直なところかなり楽しみにしているのだから、あと少しの間、なんとか頑張ってほしいのだが・・・。

 今回のナベルビン9クール1回目は本当に副作用が楽で良かった。このくらいだったら全く問題ない、と我ながら単純だが、テンションが上がる。
 早くも明日はまた通院日。今回も副作用が軽くうまく乗り切れることを祈って出かけたい。

 日本時間で今朝発生したニュージーランドの大地震に心が痛む。シンボルマークとも言えるクライストチャーチの大聖堂の無残な姿。いつか行ってみたい国の一つだったのに。被災者の方たちの一刻も早い救出を心から祈りたい。
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2011.2.21 10年先を思い描いて生きる

2011-02-21 20:10:41 | 日記
 新聞社の医療・健康関係のネット記事を読んでいたら、日野原重明先生のコラムに目がとまった。
 ご存知のとおり聖路加国際病院理事長、名誉院長でおられる先生は1911年生まれ。今年100歳を迎えられる。小学校で「いのちの授業」もされており、息子に読んで欲しくて「十歳のきみへ 九十五歳のわたしから」(冨山房インターナショナル 2006.4)などの本を買ったこともあった。

 以下転載させて頂く。

 ※ ※ ※ ※(転載開始)

99歳  私の証 あるがまゝ行く
10年日記は人生の道しるべ(2011年2月21日)

 先月のこの欄で私は、「10年日記」を買ったことを書きました。以前は1年分のポケット日記を使っていましたが、現在使っているのは3年分書き込める日記と、この10年日記です。今回は、私が長期間の日記を愛用する理由について触れたいと思います。
 1年分の日記を書いていた私が、3年分書き込める日記帳をプレゼントされたのは20年前のことでした。
 3年日記はA4サイズです。2月10日のページの場合、最上段に最初の年の記入欄が印刷されており、その下段には次の年の欄があり、最下段には3年先の欄があります。1年以上先の講演や、大切な行事予定などを記入することにしました。
 「新老人の会」の全国35支部主催の講演会をはじめとし、私は1年間に170回もの講演をしています。全国各地の小学生に「いのちの授業」も実施しています。このようなスケジュールが2年先、3年先にも入って忙しくなるので、3年日記はいつも手提げかばんに入れるようになりました。
 一方、10年日記を頂いたのは2004年末です。「石原10年日記」という、石原出版社から発行されたものです。昨年末に購入した新しい10年日記には早速、2020年までの毎年の10月4日の欄に私の誕生日の行事予定を記入しました。
 こうすることで、10年先をつねに意識し、110歳までは現在と同じはつらつとした生活をしたいと強く思うようになりました。今までしていた週1回の徹夜はやめ、午前1時までだった原稿書きは0時までにして、就寝時は能率のよいうつむけ寝の姿勢を取ること、起きるのは午前6時半ということも決めました。
 この10年日記を使うたび、私は元気に生きるエネルギーをもらいます。私に講演を依頼する各種医学会などには、少なくとも3,4年後でなければスケジュールが取れないとも宣伝しています。この日記は、人生という長い階段を上るのを助ける、手すりのようなものなのです。読者の皆さんにも、年齢にかかわらず、長期間の日記を使って数年先の生活を設計しながら生きることをお勧めします。

 (転載終了)※ ※ ※ ※

 先日の「つぼみの会」で、「10年後にこうして皆と逢うのはちょっと難しいと思う。だからこそ、逢っておきたかった。」と、心の中を打ち明けた。その後、様々な話題が飛び交う中で、子どもの未来の彼女やら結婚の話等をしているのをちょっぴり辛い気持で聞いた。
 とりあえず一区切りとして、息子の成人式を目標にしているけれど、結婚までは頑張っても届かないだろうな、とぼんやり思っているから。

 が、私の倍を生きている先生が10年先のことをきちんと考えておられる。もちろん私なんぞと比較の対象にしては失礼なのだが、自分から人生に線を引くことはないのだ、と改めて元気を頂く。

 そう、人は生身だ。今、健康で元気な人だって、いつ不慮の事故にあわないとも限らない。勝手に自分であと何年・・・、などと思い悩むのは辞めよう、と思う。とは言うものの、自分の10年後の姿がなかなかリアルに描けないのは事実だ。けれど、そこで負けてしまってはおしまいだ。病気の思うツボには嵌りたくない。

 再発して3年。日々の生活と治療と仕事に追われ、本当にあっという間だった。そして患者会を通じて沢山の出会いがあった。また、ずっとご無沙汰していた旧友たちと旧交を温めることもできた。今日一日を前向きにケサラ ケサラ ケサラで生きていけば(先日観た「毎日かあさん」のエンディングのテーマソング・ケサラ~CHE SARA~の「今日の一日を前を向いて歩いてく」がとても心に染みた。)、次の3年もまたあっという間に過ぎるのかもしれない。

 だからこそ、繰り返しにはなるけれど日々を大切に、自分でやりたいことをやり、美味しいものを食べ、心を柔かくして、よく笑って、そして泣きたいときは無理に我慢しないで涙を流そう、と思う。そのひとつひとつがきっと私の生きる力に変わってくれることを信じて。転んでもただでは起きないぞ、と自分に言い聞かせながら。
 「あんなこと言ってたのに、まだ元気で生きているんじゃない!」と笑われるくらいまで。
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2011.2.20 泣いてるヒマがあったら、笑おう。-「毎日かあさん」

2011-02-20 18:26:52 | 映画
 西原理恵子さんの“映画「毎日かあさん」”を観た。

 ご存知のとおり、西原さんの元夫であった鴨志田穣さんと2人の子どもとの実話を基にした漫画の映画化だ。これまたご存知のとおり、元夫婦であった小泉今日子さんと永瀬正敏さんが、サイバラと鴨志田さんを演じての話題の共演。 
 今はTVアニメにもなっているというが、私はまだ見たことがない。この漫画を最初に読んだのはやはり病院だった。自分で持っていた文庫を読み終えてしまい、図書室にあったものを拝借して読んだ。いやはや凄いインパクト。こりゃ大変だ・・・、ブンジ君よりはわが息子のほうがまだまともだ、と思ったほど。

 パンフレットで重松清さんが書いているとおり、かあさんの「だいじょうぶ」という声が聞こえてくる作品だった。悩むことの尽きない親や、まわりとうまくやっていけない子どもや、気持ちがすれ違ってしまう家族に、綺麗ごとではなく言い続けてくれる「だいじょうぶ」が西原さんの作品だ、と。

 今回も、夫は、鴨志田さんがアルコール依存症を克服したかと思うと腎臓癌で倒れるというお話である、と先刻承知だったので、つきあってくれなかった。それでもめげずに一人出かけ、子役の演技やママ友との会話のかけあいに沢山笑って、ちょっぴり涙ぐんで、とても元気をもらってきた。

 永瀬さんの体重の落とし方には役者の凄みさえ感じさせられた。スキンヘッドで眉も薄く、頬がこけ、最後に点滴でつながれている様はとてもフィクションには見えなかった。
 永瀬さん演じる鴨志田さんが亡くなり、帰宅して、サイバラ役の小泉さんが「一人動かなくなった彼の前で座り込んで泣き続けていたときに、2人の子どもたちがしてくれたことは、私を笑わせてくれたことだった」のナレーションの後、「神様、私に子どもをありがとう」という漫画の台詞を書くところで一番心を揺さぶられた。
 そして、我が息子に妹をプレゼントできなかったな(ずっと欲しがっていたのだ。)、とちょっぴり悔いた。

 泣いてるヒマがあったら、笑おう。本当にそうだ。笑うことで免疫力は確実にアップする。泣いて怒って一日終わるより絶対に笑った方がハッピーだ。

 今日でゾメタ点滴開始からちょうど3年になる。初回は当日夜から体中がギシギシして、高熱が出て、動けず、翌日は一日休まざるをえなかった。
 2回目以降はすっかり体が慣れてなんともないけれど。あと何年続けられるのだろう。

 息子は朝からお友達と1日遊び呆けている。いつも見ているアニメの時間までに帰ってくるかと思いきや、すっかり羽を伸ばしていまだに連絡さえない。本当に糸の切れた凧のようだ。
 息子元気で留守がいい、とまでは言わないけれど、受験の結果が出て、最初の休日。片目どころか両目をつぶって自由にさせてあげたい、とも思う。

 今日も午後はリンパプラスヨガでたっぷり汗をかいた。昨日に続いて「土日くらいゆっくりしなよ。」と夫が夕食を担当してくれた。
 本当に恥ずかしながら「毎日かあさん」をやっているとはとても言えない・・・幸せな私である。

 
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2011.2.19 30年前にタイムスリップ・・・「つぼみの会」実現

2011-02-19 18:38:27 | 日記
 先月、年賀状のやりとりが一段落した頃、予備校時代の友人から「逢えないかな」の電話連絡が入ったことはこのブログでも書いた。お互いに今も年賀状をやり取りしているメンバーと連絡を取り合ったところ、フルメンバーとはいわないまでも、なんと6人と連絡がついた。150人から200人ほどのクラスで女子は10人もいなかったから、殆ど顔見知りであったのだ。早速、では・・・、とまた幹事役を引き受けてしまうところが我ながらお調子者である。前に「プチ虹のサロン」で行ったことのあるフレンチのお店を予約した。久しぶりなので静かにゆっくり話せたらいいよね、ということで。実際、なんと4時間近くがあっという間に経過した。

 そういえば、こうして皆で集まるときにはいつもカメラを持って写真を撮り、その写真を焼き増しして配るのは私の役目だった。(今ではデジカメで撮影しPCに送付するのだから、これも時代は変わった、ということなのだけれど・・・もちろん、今日も持参した。携帯だけでなくPCのメールアドレスも交換し、これからは連絡が取り易いね、と言いつつ。)それで、私の結婚式の披露宴の時に、同じテーブルに座った友人たちは「あれ、今日はカメラないね、●●(私のニックネーム)どうしたんだろう・・・」とあたりを見回したそうだ。そりゃそうだ、私が高砂席に座っていたのだから・・・。

 電話をもらった彼女は、高3女子の受験生を筆頭に小学生までの三女一男の4児の母だし、そのほか2人もそれぞれ二男、一男一女の2児の母。一人っ子男子は我が家ともう一人。そして二男の母と一人っ子男子の母は大学受験生の母。一人はDINKSでご主人と会社を経営しているという。忙しい中、こうしてなんとか再会が果たせたことに感謝である。またはずみがついて次回が近々実現するかもしれないな、と思ったら、3ヵ月後に私の勤め先の大学内のレストランで開催することまで一気に決まってしまった。

 それにしても恥ずかしながら白状すると、この会の名称はタイトルのとおり「つぼみの会」という。
 50歳目前のいわゆる妙齢の女性たちが集って「つぼみの会」もないものだが、彼女たちと出会った当時は、誰も皆18歳ないしは19歳だった。苦節一年、ようやく大学進学を果たし、「私たち、まだ“つぼみ”だけれど、これからはそれぞれ大きく花開くわよ。」という気概があっての前向きなネーミングだったと思う。

 わずか1年のつきあいだったのに、大学時代も結構頻繁に会っていた。この会のメンバーから一番最初に結婚式に呼ばれたのは、働き始めて2年目だったと思う。その後5,6年目くらいにバタバタと結婚式が続いた。
 年賀状に赤ちゃんの写真が印刷されたものが舞い込むようになり、お互い仕事や子育てで忙しくなり、以来、集うことはできなくなっていた。それがもう、当時の自分たちと同い年の予備校生なり高3生の子どもがいる、というのだから時の流れはなんと早いことだろう。

 すっかり30年前にタイムスリップし、事前確認の調整メールのやりとりも、当時の愛称になっていた。再会を果たし、お互いに「本当に全然変わっていないね~」と驚きつつも、良く見れば、これまでの人生お互いいろいろなものを背負ってきた四半世紀近い歴史が、顔に滲み出ているのかもしれない。

 女の子のくせに(と、当時はまだ言われた。)予備校に通ったことは、現役で進学した人たちから見れば遠回りの1年だったと思われるかもしれない。けれど、高校時代とは全く別の、大学進学という同じ目的のために全国から集ってきたメンバーとひたすら勉強に明け暮れながらも、当然ながら青春の悩みも抱え、お互い切磋琢磨しあった経験は、私にとって大きな宝物だったのだ、と今、改めて大切に思っている。

 うち1人とは、同じ最寄り駅である。近くに住みながら殆ど会うことがなかったが、今日は駅までご主人が迎えに来ていて、ついでに私も家まで送って頂いた。このご夫妻とは大学時代同じ学部に通った仲でもある。「相変わらずラブラブなのね。」と冷やかしつつ次回の再会を約束して別れた。
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