四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

松山城跡(埼玉県吉見町)

2015年04月08日 | 100名城以外の城館跡


松山城跡(埼玉県吉見町)を攻城してきました。

松山城と言えば、愛媛県松山市の「(伊予)松山城」、岡山県高梁市の「備中松山城」が有名であり、この2城は現存天守を有することでも知られています。
今回攻城した松山城は、これらふたつの松山城と区別するために「武州松山城」あるいは「武蔵松山城」と呼ばれることもある比企丘陵の先端に築かれた平山城です。
平成20年3月28日に、すでに国指定史跡であった「菅谷館跡」(嵐山町)に、この「松山城跡」「杉山城跡」(嵐山町)、「小倉城跡」(ときがわ町・嵐山町・
小川町)を加えた4つの城館跡の広域指定による国指定史跡となりました。よって指定名称は、「比企城館群跡 松山城跡」となります。

トップの写真は、市野川越しに撮った松山城跡です。






登城口です。しかし、大手口跡ということではありません。




案内板ですが、国指定になる以前からのものです。城郭についての説明はこれを読んでいただけ
ればおおよそわかります。しかし、曲輪名等が現在の表示とは異なるにもかかわらず放置です。




こちらは別の場所に設置されている案内板ですが、内容は同じですし、修正されていないのも同様です。




案内板の見取図に修正を加えてみました。赤字の表示が現在の曲輪の名称です。
そもそも中世の城跡に「二の丸」等の呼び名はちょっと思いますが、以前は現場の標柱はそうした表記がされてい
ました。それでありながら、標識は「←三ノ曲輪方面」などと曲輪を使うというように一貫性もありませんでした。




登山道は問題ありませんが、篠等が生い茂っていますので腰曲輪跡(平場)はわかりません。




笹曲輪




本曲輪と笹曲輪の間から太鼓曲輪跡を見ましたが、やはりこのように雑木が伸び放題ですので・・・




本曲輪跡 ①
汚れきっていて読みずらいし曲輪ほぼ中央に「松山城跡案内図」と「本曲輪」」の標柱があります。「松山城跡案内図」は
写真をアップしても判読できそうにありませんので省略します




本曲輪跡 ②




本曲輪物見櫓跡に建てられている「松山城址碑」ですが、地震で地盤に影響が出たのでしょうか。




本曲輪跡から東松山市街を・・・




本曲輪跡と二ノ曲輪跡の間の空堀。雑木等が生い茂り底が見えません。相当深いのですが・・・




二ノ曲輪跡




三ノ曲輪跡 ①   以前は「春日丸」という曲輪名でしたが・・・




三ノ曲輪跡 ②




三ノ曲輪と曲輪4とのあいだにある堀切




曲輪4   以前は三の丸と言っていた曲輪




曲輪4西側にある土塁と櫓台跡




馬出




兵糧倉跡




惣曲輪跡  現在は畑になっています




竪堀  上から




竪堀  下から    写真では急斜面とはわかりませんが

藪をかき分けてということもなく、よく整備されている方で散策しやすい城跡ではありますが、空堀の半分ほどが篠等で蔽われてしまい、
折角の深い空堀や堀切の魅力が半減してしまっていたのは残念でした。城跡整備といっても簡単にできるものではなく、ましてや私有地
ですから大変なのは十分理解できます。しかし、国指定史跡ですのでそれに見合ったものをついつい期待してしまいます。
他の比企城館跡群の「菅谷館跡」、「杉山城跡」があまりにも見事に整備されており、ついそれらと比べてしまいますので。

攻城日:2015年(平成27年)4月6日(月)            

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