四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

高坂館跡 再訪

2023年07月21日 | 100名城以外の城館跡


名 称:高坂館跡(たかさか やかたあと)
別 称:高坂城跡、高坂藩陣屋跡
遺 構:土塁、堀跡
選 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:高坂館跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:東松山市高坂834ほか 
 
高坂館跡を久しぶりに訪ねてきました。前回は平成27年(2015)2月のことでしたから約8年半ぶりという
ことになります。以前と特段変ったところはないようでしたが、数年前に市の教育委員会が土塁の前に説
明版を設置したようでしたので、それを見てこようとの単純な動機でした。
境内では猛暑の中を6人程の職人さんが剪定作業をしており、邪魔をしないようにと写真は控えめに・・・


    『高坂館跡』前回訪問時の投稿



高済寺本堂




高坂館跡説明版  ※金属製のため読みづらいので下に転記します
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埼玉県選定重要遺跡  高坂館跡
高坂館跡は高坂氏の居館として南北朝時代に造られました。近年の発掘調査で、現在地の南にある高坂二番町遺
跡(現・子育て支援センターマーレ周辺)から、高坂氏が活躍した時期(十四世紀前半)のかわらけや輸入陶磁
器が出土し、当時の館の中心はもっと南にあった可能性があります。
現存する土塁や堀は、『鎌倉大日記』に伊勢宗瑞(北条早雲・明応の政変に際し明応三〈一四九四〉年に在陣)が、
『正法寺文書』に北条氏康(松山城攻めに際し永禄五〈一五六二〉年に在陣)がそれぞれ在陣したとの記述がある
や、発掘調査で土塁や堀を改修した痕跡が見つかったことから、戦国期に整備されたものと推定されます。
館というよりも”城”のような規模になっていた「高坂館跡」は、戦国期の激しい動乱を今に伝える貴重な遺跡です。
【館の規模 南北二三〇m・東西一七〇m 土塁頂部と堀底の比高差八m】
 平成三十一年三月                            東松山市教育委員会

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高済寺本堂の西側にある土塁 実際にはもっと延びていたようですが道路によって消滅しています。




土塁西側の堀跡 木が伐採されていました。右上に「加賀爪氏累代の墓」が見えます。




土塁上を北方から南方に見ています。土塁上にあった木はすべて伐採されています。たくさんの土嚢が置
かれていますが地盤が緩んでしまったのでしょうか?




土塁の北端にある「加賀爪氏累代の墓」(埼玉県指定旧跡 昭和38年〔1963〕8月27日指定)
前回の訪問時は周囲が木立になっていましたが伐採されていました。墓所の右端に建立されていた石灯篭
もなぜか地輪のみになっていますし、やはり以前は見ることのなかった土嚢が積まれているのもなぜか違
和感が。


訪問日:令和5年(2023)7月19日(水)

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