AKB48の旅

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フォトブック あっちゃん

2012年08月30日 | AKB
ようやく一通り目を通せた。テキスト量としてはそれほど多くはないと思うけど、内容的には充実しているし、興味深いものだった。なにより、前田敦子とは何者なのかに、わりとシンプルにストレートに答えてくれる内容になってると思う。いちおう本ブログの考察の大枠を変える必要はないようでほっとしたけど、まあ、反省点としては、深追いしすぎてたなあとかは認めざるを得ないかな。

中でもいちばん印象に残ったのは、前田敦子という私的な存在と、AKBセンターという公的な存在が一体化してると思われること。たかみなの公的あり方については、何度か触れてきたけど、当然ながら前田敦子という存在も、優れて公的な存在だった、それに今更ながらに気づかされた。

そこにメンバーが、とりわけオリメンと大島優子が巻き込まれていった、いや、進んで参加していった結果が、AKBという存在なんだと、腑に落ちた感じがした。まあ対談がオリメンと大島優子なんで、そう見えるだけかも知れないけど、これはたぶん「聖性」というものと関連するんだろうとも思う。前田敦子という存在と深く関わった範囲、その「聖性」に携わった範囲が、彼女らだったと言うこと。

渡辺麻友、松井珠理奈ら、個別のインタビュー組の内容は、明らかに遠巻きに見てる感触で、前田敦子の「聖性」の内部ではなく、外から見上げている。ある意味ファンと同じで、その「聖性」にあこがれてる。アイドルと「聖性」の問題は、これまでも議論されてきたように理解してるけど、その多くは俗世界とは違う芸能界の隔離性、高嶺の花の向こう側的な演出に、その淵源を求めていたように思う。

けれども前田敦子は違った。俗世界の中にあって「聖性」を護持し続けた。それを可能にしたのは、もちろん秋元康の演出なんだろうけど、どんなにハイレベルの演出があっても、誰でもができることではない。否、そんなこと誰にもできるはずがないのに、前田敦子は成し遂げてしまった。これは何なんだろう。前田敦子は「普通の子」。そこは変更の必要はないと思う。なのにアイドルとしての頂点を極めてしまった。

高橋みなみはメンバーが担いだリーダーだったけど、単なる御輿ではなく、ストイックで理想的な48G全体への奉仕者となった。前田敦子はファンが担いだアイドルだったけど、単なる御輿ではなく、ストイックで理想的なシンボルとなった。その困難さは想像するにあまりあるけど、とにかくそんなことが成し遂げられてしまった。そしてここにもフラクタルのごとくに、階層構造にして相転移が潜んでいる。

たかみなとメンバーとの関係性は直接的であるのに対し、前田敦子のそれは間接的、疑似双方向的だった。だからこそ、前者が共同体として振る舞っているのに対し、後者は幻想としての共同体を超えた「共同幻想」なのであり、つまりは「神」ということになるのか。

いずれにせよ「聖」と「俗」、「公」と「私」、アイドル論はたぶんそこに行き着くはずで、これは正に宗教論なんだろう。このあたりはものすごくめんどいので、また機会があったらということで。読み返してみると大甘な議論だけど、これはこれにて。

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