よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

たかが英語、されど英語・・・

2009年11月10日 | No Book, No Life


この本のオビに書いてあるように、今まさに「英語を開放する」秋(とき)の到来。

このあたりのことを、連載している「英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方)」で考えてみた。

上の写真は、1970年代の本だが、その後何回か復刻されている。ダグラス・ラミス「イデオロギーとしての英会話」。その中の一節。

<以下貼り付け>

 このような条件の結果として、アメリカ人は、アメリカと日本との関係を、先生と生徒といった関係に見がちである。この信念は意識的な意見の型をとるのではなくて、無意識的な前提条件の型をとる。

 つまり、このような意見は、意見としては否定する人でも、実際にはそれと同じ行動をとりづつける。非常に根深いところで、アメリカ人は、自分達はすべてが正しい秩序にみちた社会からやって来ていると信じているから、日本という領域に入るやいなや、彼らは自動的に、普通の市民から先生へと変身してしまうのである。彼らは時にこれといった資質によってではなく、先生の文化に属するメンバーであるが故に先生なのである。

 したがって、自国ではゆめゆめ先生なぞになれないアメリカ人でも、ここでは容易になれるということは当然のこととなる。(中略)アメリカ人の間で、日本への旅がこれほど人気がある理由の一つは、彼らが突然の身分の上昇を楽しむことができ、生れて初めて階級的エリートとして取り扱われるからである。(p.28)

<以上貼り付け>

ネットの出現、浸透で昨今はますます英語優位な状況。そして、覇権国アメリカの没落基調は長期的には確定的。ゆえに結果として、自然言語としての英語が解放される過程に入ってゆくとの見立てもできるだろう。

案外、英語という最も身近な外国語との接し方が、自分をローカライズするのか、グローバライズするのかに決定的な影響を与える。グローバライゼーション賛成、反対といった抽象論や根拠が曖昧な価値判断ではなく、英語との接し方というプラクティカリティ、具体論で決まってくる。