よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

忠臣蔵の故郷、赤穂浪士の義はほのぼのと...

2005年11月27日 | 講演放浪記
赤穂市立病院にて講演。

街の中心部は忠臣蔵、赤穂浪士の一色で染まっている。すごい街だ。講演の始まるちょっと前大石神社に立ち寄ってみた。

播州赤穂は言わずと知れた忠臣蔵、赤穂浪士の故郷。大石神社は明治天皇の宣旨を受けて明治33年、神社創立が許され、全国から集められた浄財で創建の堵についた神社。なんと大正11年には、四十七義士を祭る神社となる。主神は、ずばり、大石蔵助良雄(よしたか)以下四十七義士と烈士萱野三平命。かの地では「神」なのだ。いや、かの地を超越して日本人一般からしてみても神か。

経典宗教の規範の中の一神教的絶対神(God)ではなく、柔軟、融通無碍に山紫水明、一草一木、山川、岩石、のなかにさえ「カミ」をみつけ、多様かつ特異なカミサマとしてあがめることができる心的な構えを持つ日本民族からしてみれば、たしかに大石蔵助良雄と四十七義士は、神的な存在であり続けている。

なぜ忠臣蔵はそんなにまでウケるのか?

第一に、「君辱めらるれば臣死す」「君父の讐は倶に天を戴かず」「義を見て為ざるは勇なきなり」と一身を省みることなく主君の仇をかえし、恩義に酬いた行為は武士道の真髄を体現しているという見方が圧倒しているからだ。忠臣蔵は文化的なアイデンティティとしての「義」が分かりやすく直裁に脈々と息づくストーリーなのだ。良識ある日本人にとって、文化的なアイデンティティの重要な一部である「義」を思い出させてくれる元型が忠臣蔵にはある。

第二に、この物語には日本人が好む要素が満載だからだ。この企てに参画する浪人にはそれぞれのっぴきならない事情があった。それぞれの悲運、逆境にもめげず、隠密裏に討ち入り計画を立て、綿密に実行するプロセスはスリルとサスペンス、義理と人情の連続だ。個人主義的な自由を捨て、大義につくす。一連の行動のゴールはなにか?吉良上野介の首、ひとつなり。

第三として、議論を呼ぶ矛盾に満ちた入子構造があるからだ。元禄時代の民衆は美談として忠臣蔵に熱狂したし、現在でもこの熱狂は継承されている。江戸の庶民は、生類憐みの令や貨幣改鋳で、反幕府的センチメントが濃厚になっていた。将軍の独裁体制、幕藩体制の秩序に一矢報いた赤穂浪士だが、実は、徳川武家政権の精神的基礎であったはずの武士の「義」を体現したという入子構造のような側面があった。だから、この事件の解釈はもめにもめた。たとえば、湯島聖堂の大学頭林信篤、室鳩巣、伊藤東涯、三宅観瀾、浅見絅斎などの儒学者は、大石内蔵助らの行動を、武家諸法度(天和令)に照らして、忠義の士と讃美、賛嘆した。その一方で、荻生徂徠、太宰春台、佐藤直方などは、法治主義、幕藩体制維持の立場から厳罰を主張した。文字通り、国論を二分したのだ。結局、元禄16年(1703年)年、将軍徳川綱吉は、荻生徂徠らの意見を容れて、大石内蔵助らに獄門でなく、切腹を命じたわけだが、いまだにその判断の妥当性には議論が続いている。

最後に、忠臣蔵には外部世界には希な「ほのぼのさ」加減があるからだ。元禄事件は、たしかに、天下泰平の江戸時代に起こった前代未聞、隔絶されたテロリズム事件ではあった。しかし、その衝突は、今にしてみれば、文明対文明というほどのものではなく、義という共通項を共有する文化内の局地的な衝突だった。その衝突には、一神教同志の先鋭な二項対立、善悪、白か黒かの絶対的判断はそこにはない。元禄事件は、イラク戦争、フランス、ベルギーなどでのアフリカ・ムスリム系移民の暴動など、文明vs文明の衝突を予兆させる文明史的深刻さはとはほど遠い。適度に、ほのぼのとしているのだ。

忠臣蔵に今日的意味があるとしたら、この「ほのぼのさ」加減への郷愁と尊重をあげたいものだ。