ばばちゃんのおっちゃんの日本語の先生への道

日本語の先生になろうと一念発起いたしました。

その178 日本語教師KENさん

2018-06-20 05:05:15 | 6.私の感想・考え

日本語教師KENさん

 ベトナム在住の日本語教師KENさんが、更に有益な情報をお持ちではないのか、そして、ヒントを与えてもらえるのではないのかと、彼のブログを繰ってみました。

「日本語教育」と「国語」

 娘さんが学校から持ち帰った教科書から、「日本語教育」と「国語」の違いを、しみじみと実感しました。とのご感想です。当然、そこには、成人と幼児の違い、ネイティブとノンネイティブの違いが有りますので、当然と言えば当然ですが、実際には、じゃ、どうすれば良いのかということになります。私は、最初からパーフェクトな日本語を目指すのではなく、敢えて、子供の会話を目指し、そこからソフィスティケートできないかと考えます。

 成人相手の「外国語としての日本語」は、文法を理解し、文を組み立てられるように練習して、発話へもっていく。小学校の国語は、すでにある程度の発話ができるとこが前提になっているから(母国語だし)、その表現力を高めていくのが主眼とのお考えですが、一見回り道に様に見えますが、見よう見まねの幼児の日本語を目指し、そこから、正しい日本語を目指してはどうかと考えます。幼児の日本語をバカにするのではなく、そこから得られるものを考えるべきと考えます。幼児の日本語も、立派な日本語です。日本には、古来、「理屈」や「頭」から入るのではなく、「形」から入るという考え方が有ります。「能」や「素読」と言ったたぐいのものです。また「九九」も、そう言ったたぐいのものではないでしょうか。(但し、私の場合は、単なる考え方で、その効果は、まだ実感、実証できてはおりませんが・・・)。

 「文法」と言いますのも、もともと日本語にはなかった概念です。従いまして、維新の頃は存在していなかったそうです。ところが、当時の役人が、英語の文法を見て、日本語に、文法というもののないのに気が付き、英語の文法に倣って、慌ててまとめ上げたと聞いております。そもそも、日本語の文法を説明するのに、成り立ちの全く異なる英語の文法を参考にして、説明しきれるのかという問題が有ります。知ってか知らずか、その後も、その延長線で、ずっと来ているように推測します。 

使用語彙と理解語彙

 これにもいろいろ述べておられますが、使用語彙を少しでも増やしますと、幼児の会話になります。会話には使用語彙が必要です。「はじめの500ご」を、お奨めましたが、何も500が目的では有りません。その中から使用語彙としてご自分が必要と考える語彙から入って行けばどうですかという提案です。最初に海外に赴任しました時は、英語で、理解語彙は結構持っていましたが、使用語彙と言われるものが少なかったので、「これじゃだめだ」と理解語彙を使用語彙に変えるように努めました。要するに口癖にしたのです。英会話で、「60フレーズ」とか、「81センテンス」とかいうのも、頭に入っているだけではだめですよ、直ぐに口から出るようになれば、すぐに役に立ちますと言うように、同じ考えだと考えます。

クライアント

 クライアントの日系企業の部長さんから、「通訳の社員もいるけど、全然使ってないよな…」とか、「決して上手いとはいえない彼らの日本語ですが、相手の言わんとすることをかなりきちんと聞き取って、たどたどしいながらも、日本語で言わんとするところを伝えられる。」等々のコメントをもらっておいでのようです。私が目指したい最初のゴールは、こういったレベルです。別の言い方を致しますと、上記のような実用に耐える日本語を、イージーに、スピーディーに得る方法がないかと模索しているのです。

 私は、実業の世界で使う言葉は、簡単、明瞭が必要と考えますので、頻度の高い語彙、文型をきっちり使える方が役に立つと考えます。上記のような感想もそう言うところかで出てくるのではないかと考えます。

 クライアントの方も、福利厚生的におやりのところと、日本人が日本に引き上げてもコミュニケーションが取れるところを目指しておいでのところも有り、それなりの教え方が必要だともおっしゃっていますので、教え方は、一通りではなく、それなりの知恵、工夫が必要のようです。 

ことばの使い方。

 以前比喩・レトリックの勉強をしたことが有りましたが、それまで、私は全く単純な考えをしていました。比喩・レトリックにはいろいろ種類が有りますのに、単に、「たとえ」一種類にしか注意が行っていませんでした。そういう目で見ますと、我々の会話の中は、比喩・レトリックだらけでは有りませんか、これでは、日本人に通じても、ノンネイティブの学習者には、難し過ぎて、通じなくて当たり前だなと感じたことがありました。おまけに、日本人同士なら、暗黙の了解で、言葉の省略もされています。それを彼らにぶっつけても誤解が生じるだけですね。特に、沢山意味を持つ動詞などは、その最たるものではないでしょうか。

表題の言葉、「僕、電気には結構強いんです」を説明するのです。

 引越しの時にテレビが壊れちゃった、という場面で、登場人物がその同僚に「僕が見てみましょうか…」と言うセリフに続く、セリフです。この「僕は電気に強い」、ベトナム語にそのまま直訳すると、何のことかわからないそうです。想像力を働かせ、皆、考えてくれました。曰く…、

「僕のうちは電圧が強い」。

「先生、電気にさわったとき痛い、とか死ぬとかは何ですか?」

『あ、“感電する”ですね。感電注意、っていう看板、町にありますよね。』

『せんせい、わかりました。「僕は電気に強い」は「僕は感電しても大丈夫」。』

でも、言われてみればそんな意味にも取れますわな。

とあります。

 以前長崎大学の先生がおっしゃっていました。日本国内で使っているテキストを現地に持って行っても、不具合が発生する場合があると。来日する学習者が日本で、学習する場合は、たとえそうであっても、そのうち分かることですが、現地の学習者が、現地で学習する場合は、生活環境、生活習慣、考え方が異なりますので、全くイメージできない現象が起こるとのことでした。正にご指摘のことが、発生しているのですね。

 私に取りましては、今のところ、設問が悪いのか、教え方に工夫が要るのか良く分かりません。しかしこのような事例が、しょっちゅう起こっているのではないでしょうか。

その4言葉の定義

https://blog.goo.ne.jp/houren_naka1000/e/9dad0f980eae7ea942db66811b131fd0

 

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