啓示の声、
ということがあります。
キリスト教で使う言葉の
ようですが、黙示とも、
黙示録ということもある
ように、神からの言葉
でしょう。
面白いことで、
分からんから信ずる
というのがキリスト教に
あります。
分かるから信ずるのでなく
分からんから信じる。
ということがあります。
「分からんから信ずる。
理性では分からん、
だから信ずると。
それは仏教の立場から
考えると、
それはどうなるかというと
それは魔力の声じゃない、
何か分からんものの声を
聞いたんじゃない。
そうかといって、
声を聞かずにただ直線に
行ったんじゃない。
それから破って、
何かわけの分からん声を
聞いて、
つまり天 … … 、
天上の声を聞いたんじゃ
ない。
大地の声を聞いたと、
こういわなけりゃならん
じゃないかね。
アザーというと、
天上の声になる、他の声と
自分の … 、
自分の脚下の声ですね。
踏んでいる大地の声を、
に触れたということが
今の転機ということになる
転換点です、仏教では。
仏教ではその転換点を
どう解釈するかというような
やっぱり、
仏教的な一つの道があるん
じゃないですかね。
それは啓示の声とか、
神秘的な声とかという
ことにはならんのです。
神秘的な声じゃなく、
自覚だと。
仏教の、
仏教的というのは自覚的に
それを明らかにする、
声でも。
自覚的じゃないと
神秘的になってしまう
のではないかと思います。
そうすると、
あの、他の声を聞いたと、
二尊というからいかにも
他のようだけど、
他の声を聞いたらですね
それはやっぱり
何じゃないでしょうかね。
たとえ神の声であっても、
それは、
神の奴隷じゃないか。」
と、このように出てきます
ここが難しいところで
他の声を聞いたと言えば
その方が簡単のような
気がしますが、
分からんでも、
神の声を聞いたと
だからそのように信じると
仏教では「転換点」と
いうことを、
自分が決断して自分の方向
変えていくという時に
そういう自覚として
声を聞いたという表現を
とるのです。
面白いのは
「天の声」というと
啓示になるし、しかし、
「大地の声」というと
自分の脚下の声ですから
足が地についているから
自覚的ということに
なるのでしょう。
自覚ということが
自分を明らかにしていく
ということです。
さらに、覚他ということも
いいます
他も明らかにしていく
ということで、
他に任せるという方が
楽なような気がします
自分で自覚するというと
すべては自分の問題に
なってくるのです。
こういう話しが
問題になってくるのは
第七地というところが
大きな転換点で
方向転換を迫ってくる
という地だからです。
そのまま、直線的に
ところてんのように
押し出されるのではなく
自分の変換を迫ってくる
という大事な地だからです
そういう意味で
この講義全体が第七地に
費やされていることが
面白いところです。
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