本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)

2024-04-23 20:28:30 | 十地経

言葉の響きが面白くて

記憶に残っている言葉です

躊躇逡巡、難しい言葉

あまり使わないようですが

躊躇する、という熟語も

ためらうという意味ですが

躊も躇もどちらも

ためらうという意味です。

また、

とつおいつ、と辞書には

あるのです

この言葉も、取りつ置きつ

が転じたもので、

あれこれと、という意味

あれやこれやと思い迷う、

ということです。

 

行者が西に向かって

火の河、水の河を越えて

行くという話しですが

いざ、自分の問題として

考えてみると

そう簡単にはいかない

のです。

「あれかこれか」という

こともあって躊躇して

しまうのです。

 

「宗教心のないものは

おらんのでしょう。

およそ僕はそう思う。

人間に、お前は駄目だ

ということはないのです。

人間は皆、なんか

宗教心というものが、

宗教心という自覚は

ないのですが、

必ず持っています。

それが弱いのです。

 

宗教心というものを

いろいろなものが

おおっている。

火の河と水の河と

そういうものが支配して

おってですね、

宗教心に立てないのです。

ないんじゃないけど

立てないんです。

 

細い道(白道)と。

なるほど茨の道というが

細い道なんです。

その細い道にですね、

立てないのです。

 

それが躊躇逡巡でしょう。

そこで信仰、求道という

ものは決断がいるのです。

ええ、決断がいる。

 

白い道は嘘だとは、

いうんじゃないんです。

白い道を疑うんじゃない。

確かにそこに本当はある

ですけど。

 

何か宗教に真理、確かに

真理というものを感ずるん

だけど…。

そんな宗教とかあるもんか

とそういうんじゃない。

確かにそれは本当だと

こう思うんだけど、

自分の方に疑いがある。

 

真理を疑うんじゃない。

真理は信じておるんだけど

自分の方を、

自分の方があぶないんです

 

そこを無礙無慮ムゲムリョ

といっています。

その白道を超えるのに

疑いなく

慮(おもんぱか)りなしと

真理に対しては

疑いがない。

しかし、

自分の方に対しては、

慮りがあるでしょう。

慮り。

何かというと躊躇逡巡

というものがある。

 

そこに

その真理が見出して…、

真理が分かった

というだけで信仰が

成り立つなら

苦労はいらんでしょう。

真理は分かった、

しかし、

自分の方に躊躇逡巡が

あるんです。

自分というもの、

自分が信じられんのです。」

 

手を放してごらん

するとすぐ下には大地が

あるよ、心配いらんよ、

とよく言われましたが

なかなか手を離せない

大したものでないけど

何か思っているものを

手放せない

必死につかんでいるのです

何か妙な固執が

あるのですね。

 

そういう形で、

躊躇逡巡していたような

気がします。

今もってウロウロしている

のですが、

一歩踏み出すということは

決断がいるのです

 

友人が洗礼を受けました

その時、

何かしら大きな決断を

感じたのです

これからキリストの教えに

身を投じていくという

そういう決断があって

足を踏み出すような

初々しい心を感じたのです

 

躊躇逡巡している人間が

覚悟を決める

というのですが

何か聞いた時にはまだ

自分が躊躇逡巡という

言葉がぴったりきた

のでしょう

妙に響いたのです。

 

 

 

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