自然という言葉も
幅広い意味をもった言葉で
また、同じような言葉に
天然という言葉もあります
「天然もの」「天然の鯛」
など、この場合は
自然とは使いません
最近では「天然」というと
また別の意味もあるようです
自然という
英語では nature と
山とか川とか木々など
そういうことも指しますが
また自然は神が造った
賜りものということで
自然というと神を指すことも
あるようです
ところが、仏教では
自然とかいて「じねん」と
読みます
そして仏教ではとても大切な
言葉になります
講義の続きですが
無量種と無功用ということが
でてきて、
「無量種が無功用を
展開してくる。」とありました
それで、
「自然(じねん)という
概念が非常に大事な概念です
無量種がいかにして可能で
あるかというと、
自然という立場に立って
可能だと。
そうすると
無功用ということは
自然ということです。
無功用が自然という言葉で
表されとると。
これは非常に大事な概念です
自然という言葉は。
自然という言葉が、
これが東洋でもね、
僕は一番古い概念だろうと
思うんです、
思想というものについて。
自然ということがこれは
存在ということをこのごろ
やかましくいうんですが、
存在というものの
根元的な一つのあり方です。
何かがあるんじゃない、
あること自身というものの
あり方がですね、
自然じゃないかと思うです。
自ずから然ある(しかある)
というのがですね、
そのあるということの
根元的なあり方じゃないか
と思うんです。
だからそこに何か
西洋思想と東洋思想の間に、
やっぱり違ってくるものが
あるんじゃないかと。
僕は分からんけど、
西洋思想は広いですから。
そういう、
自然を克服する
というところに、どうもその、
観念論というか
理想主義というものの根本、
それは
プラトニスムス(platonismus)
ですね。
自然を克服してくると。
こういうヨーロッパの、
そこにヨーロッパの精神と
いうものの強みもあるけど、
自然を克服していくという。
歴史ということでも
文化でもみんな
自然を克服すると。
その場合の自然は
カオスというもんですわ、
初めの方は。
けど、
東洋の自然というものは
どういうでしょうかね、
自然というものは。
自然というものは人間が
克服するもんじゃない、
人間を生産するもんじゃ
ないかね。
自然の展開なんだ、
人間というものはね。」
まだまだ、自然ということは
続くのですが
シゼンにしろジネンにしろ
広辞苑でも見てみても
非常に深い内容を持った
言葉でもあり
考えさせられる言葉でも
あるようです。
何ごとも障りなくできる
という無功用ということも
自然なればこそのように
思います。
platonismus というのは
辞書にはありませんが
似た言葉で
platonisch という言葉が
あり、
プラトン的つまり
神秘的、非感覚的、非現実的
という意味になります。
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