door to door
なんとも便利な生活でした
が、
明日からはいよいよ
本来の姿に戻って
二足歩行の生活です
車があるということは
好きな所へ好きな時間に
出発できて行くことができる
便利なようで
好き勝手というものも
いいようで悪い面もあります
今日も何だかだと
ほぼ一万歩歩きました
ここのところ歩くことが多く
おかげで良い面も
あるようです
お釈迦さまも
遊行といって
お説教には歩いて行かれ
それも必ず安居といって
雨期の時には
祇園精舎とかに留まり
ということのようでした
遊行という言葉も面白く
遊びに行くといって
いますが
僧侶というのは本来
仕事はしないのです
仕事を捨てて修行の道に
入ったのですから
でも、
職業欄には「僧侶」と
区分としてはサービス業
ということのようです
仕事となると
対価を求めるということ
になります
遊びはそうではなく
何か、そのものになる
という
なかなか遊べないのです
人間は
遊びながらも仕事が
気になるものです
ある時
お釈迦さまが
布施をお願いされました
するとそこにいた農夫が
人に乞うだけでなく
あなたも田畑を耕したら
どうか、と
するとお釈迦さまは
私は自分の中の畑を耕す
のだと、答えられた
というのです
第一義諦ということがあって
まず第一に考えなければ
いけないことなんです
それを二の次にして生きている
というのが私たちの姿ですが
他のことは色々分かっても
肝心の自分の事は分からない
というのが
私たちの姿です
仕事を捨ててでも
まず一番先に考えなければ
いけないことをする
というのが本来の出家者の
あり方です
お釈迦さまも
釈迦族の王子を捨てて
出家されたのには
そこに意味があります
安田先生もよく
バンデルングということを
仰っています
歩くことが思考すること
逍遥学派といって
歩きながら考える
京都には
西田幾多郎が散策された
哲学の道
というものがあります
思索ということは
散策することと同じです
といっても
現在の私のいる場所は
人通りも多く
思索なんかして歩けません
人にぶつからないように
回りに気を配りながら歩か
なければいけません
哲学の道も
今は一つの観光名所
思索なんかするところでは
ないのです
でも、忙中閑あり
ということもあります
雑踏の中にこそ思索する
ことがあるのかもしれません
安田先生も
学校というもの今では
よく景色のいい郊外に
移るが
あれでは勉強できんでしょう
と言っておられました
弘法大師の作られた
綜芸種智院大学が
町の中に作られたのには
そういう意味があるかも
しれません
これからは
人間の原点に返り
二足歩行で思索に励む ?
仕方なく歩かなければ
いけない状況になってきた
ということです。
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