本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

さとりも自覚なんだ

2023-07-15 20:59:15 | 十地経

人間を中心に見ると

下には六道輪廻といって

地獄餓鬼畜生と

その人間が仏を目指すと

声聞・縁覚・菩薩・仏

というようにあるのです

そのなかでも

「声聞」(しょうもん)

という位

声を聞く、と

自覚といっても

やはり道に触れた人の声を

聞くということから

はじまります

 

ですから、声聞という立場

非常に好きなところです

さとるとか何とかよりも

声を聞く

これが人間としても

一番大事な立場のようにも

思います

 

安田先生も

「こう年は取ったけど

立場は学生だと、

年とった学生です」

と仰っておられましたが

学生ということが

声聞です。

 

講義は

「仏教では、何といいますか

自覚ということは、

これは自発(じほつ)という

自発性ということが、

他から強制されんと、

それはね。

 

だから信仰でもやっぱり、

キリスト教の信仰と

仏教の信仰と違うのはね、

キリスト教の信仰はですね

命令されるですわ。

これを信ぜよと、

こういうふうに、

他から命令される。

だから信仰という。

仰ぐという字をつける。

 

仏教ではそういうことを

いわんです。

信でもいいし、

やっぱり禅宗なんか証ね、

信でも証でも、

これはみな一つの自覚

という意味をもつんですね。

信ずるといっても、

何か分からずに信ずる

ということはない。

信心の自覚なんです。

さとりも自覚なんだ。

信も証も自覚的という意味

ですね。

 

自覚というのもこれは、

今いったように、

発得(ほっとく)と

いうでしょう、

発得、真理の発得とかね、

あるいはね、発起とかね。

あるいは開発(かいほつ)

とか、

発起とかいうこというんです

 

開くんです。

起きてくると。

発という字はただ

生ずるという意味じゃない、

飛び出すという意味でしょう

発というのは、

開発してくるというのは。

 

何か閉ざされていたものが

埋もれとったものがね、

見直されてくるんだ。

それからして、

抑えられとっても、

そこから起こってくる、

破って。

 

他から

そうさせられるんじゃない、

自分みずから起こってくる。

名のってくる。

真理が自分に名のってくる

というんだ。

そういうときに、

発起とかね、

開発とかいうものが。」

 

「他に依るんじゃない、

自分に依っとるわけです。

ただ、他を縁とする。

他を縁として自分が展開

していくわけです。

 

教えというものはこれは、

縁なんだ。

教えられることは

縁なんだ。

教えられるという、

教師によって

教えられるということは

縁なんだ。

 

それを縁として、

自分の中にあったものが

そこで目覚めてくるんです、

開発するんです。」

 

何かしら今日のところは

とても感動的というか

自帰依、自燈明ということが

明かにしてあるように

感じます。

 

 

 

 

 

 

 

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