この言葉は
中国の「蒙求」モウギュウという
少年用の教科書に出てくる
ものですが
「読書百遍而義自見」
読書百遍義自ずからあらわる
ともいいます
安田先生はこの言葉の通り
『十地経』を何回も何回も
読み下していかれたようです
自分が納得するまで、
「読書百遍意おのずから
通ずるということが
あるでしょう。
あれも一つの教育方法です。
たとえてみたら、
外国語の勉強というような
場合ですね。
英語でも何でもいい。
そういう場合はとにかく、
その優れた外国の文学の
優れた文章を暗唱する
ということがまあ基礎だ。」
それで外国語を勉強する時
大事なのは
「これはやっぱりその
己をむなしうして向こう側
から聞くということしか
ないんだろうと思うです。」
「自分が無になるという
ことしか。
向こうから語りかられて
語られたことを
理解することができる。
これしかないんです。
だからして、
優れた文章を暗唱する
ということがですね、
それが一番大事だと。」
この中に出てくる
「己をむなしうして聞く」
ということが
ちょうど修行時代、
三浦先生から常にいわれた
言葉なのです
自分が自分がと言っていたら
絶対に分らないし
また人のことも理解できない
読みながら
ふと思い出すのですが
なかなか、
自分を空しくして
人の話を聞くというという
ことはできないもです。
ここでは
外国語を学ぶ方法として
自分が無になると
でなければ相手の言葉を
理解することができないと
言うように出てきますが
「自分を無にして」
ということは何事にも
通じることのように思います
それから話は続き
「僕の弟は北白川におるんで
そこへ焼けた本を預けて
あるんで、整理に行っとるん
ですが、
隣が、吉川さんなんだ、
これ中国語でしょう。
あの人は東方文化研究所の
所員です。
それでなんでも研究室では
絶対日本語を禁止という。
みんな中国語で会話させる
というような修練を
やっとんたんです。
ここでは字引は使わない
そしてさかんに発音させる
一語一音というのが
中国語の原則です
だから、
何遍も発音しておる
というと
おのずから意味が
分かってくると。
こういうような方法を
むしろ強制しとった。
音というものを
何遍も聞いていると
そこに意味が分かってくる
字引で見たんでなしにね。
そういうことを
いってましたね。」
という話しが
出てくるのですが
何かしら思い出すのは
中学・高校と一貫校で
それも出来立てという学校で
その時の漢文の先生が
年を召した方で
漢文も内容よりも
まず、中国語で暗唱させる
というものでした
シャウネンイイラオ
シレナンチョン
という具合に
少年老い易く学成り難し
ということなんですが
ああいう中国の文章を
それも中国的発音で
暗唱させる
年の割には
えらい元気のある先生で
力づくでも覚えさせる
という感じでした
ここのところを読みながら
講義に出てくる「吉川」
という先生の
流れを汲んでおられたのかと
今頃懐かしくも思うのです
熱烈な先生でした
不思議な縁で
この熱烈な先生が
『仏教概論』という
金子大栄先生の本を頂いた
方なのです。