無量種・無功用(むくゆう)
この言葉は『十地経』でも
『華厳経』でもよく出てくる
言葉です
講義の中でも
無功用(むくゆう)と
言葉の響きが、なんとも
耳に残っているものです
面白いことに
『広辞苑』にも「無功用」
という項目があるのには
驚きました
「功用」(くゆう)
というのは、身口意の動作
ということで
自然(じねん)のままに
行えるようになるのを
「無功用」と
修行でも稽古でも
身に付くというか
一生懸命やっている
というのはまだ有功用で
もう、一生懸命という
そういう気持ちがなくなって
行えるようになるのを
無功用というのでしょう
『十地経』でいうと
七地までを有功用といい
八地以降を無功用といいます
講義では
「無量種ということが
いかにして可能であるかと
いえばですね、
(あらゆる方法を尽くして
ということが無量種です)
あらゆる方法を尽くして
ということを
分別でやろうとすれば、
それはできんでしょう。
無量種であることが
真にできるのは無功用だから
です。
自然(じねん)だからです。
無量種というようなことは
努力でやるわけにいかんです、
努力で。
無量種というのは
あらゆる方法を尽くして
というようなことを
努力でやるというような
ことは間に合わんです。
無量種ということが
もう自然に展開する。」
やっとというか
繰り返し読んでいるうちに
無量種、無功用ということが
何となくぼんやりと
分かってくるような
無量種というのは
あらゆる方法ということで
人間が精一杯やると
いったところで
人間の努力では間に合わん
だからといって
何もしないというと
なおさら出来ない
努力を積み重ねるうちに
努力のいらない世界を
見出してくるのでしょう
テレビでもよく見る
職人さんの技
どなたも
「まだまだ」だと仰る
しかし、やっていることは
神業に近いような技
だから
無功用というのでしょう
何かをなすには
ありとあらゆる手を尽くす
そこが無量種
「綜芸種智院」の「種」も
ありとあらゆる技術と智慧
ということでしょう
そういうことが完成するには
無功用という
自然(じねん)ということが
ありますが
まあ「自分が」という
自分が作るといったら
それは無功用ではなく
有功用ということで
我執というのもが対治されて
いない、
よくいう
「無になって」
というようなことが
無功用ということで
それで初めて
ありとあらゆる方法が
見出されてくる
そういうことを講義では
「無量種ということが
もう自然(じねん)に
無功用を展開する。」
といっています
無量種・無功用
やはり何度も聞き直さないと
分からないようです
しかし、
これで分かった
ということでもないのです。
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