この「十地経講義」は
私が聞き始めてずっと第七地
途中、
先生がご病気されましたが
七地に始まり七地で終わった
ということです
それで「十」ということを
見てみると
色々な翻訳があります
人によっても違うし
また時代によっても違う
といいうことがあるようです
第一 初歓喜地
(しょかんぎじ)
第二 離垢地(りくじ)
第三 明地(みょうじ)
第四 炎地(えんじ)
第五 炎勝地
(えんしょうじ)
第六 現前地(げんぜんち)
第七 遠行地(おんぎょうち)
第八 不動地(ふどうじ)
第九 善慧地(ぜんねじ)
第十 法雲地(ほううんじ)
の十になります。
講義では
「結局、地ということね
ブーミbhûmiというんです
地ということは
結局プロセスという意味じゃ
ないか、地ということは。
無限のプロセス、
十ということは無限という
ことを表すわけです。
十一になったら多すぎる
というようなことではない。
何かこの、
道というものの
とにかく全体の道程を見渡す
境地に立つことができた
という意味がある。
中途半端ではなしにね。」
ですから先生は
初歓喜地から順に説かれる
ということではなく
地眼というか
ちょうど第七地を抑えると
全体が見えてくる
そういうことで
この第七地を中心に据え
第六現前地に戻ったり
第八不動地を見ていく
ということのようです
十地の名称も
それぞれに訳し方が違う
初歓喜地も別の訳では
乾慧地(けんねじ)という
智慧が乾いている
これも面白い訳です
智慧があってもまだ禅定の
水に潤されていない
まだ練られていないという
ような意味でしょう
また「地」ということも
十地というのですが
意味は住処の意味で
「十住」とも訳されます
弘法大師の
『十住心論』もやはり
十地ということを十住と
名付けられたようです
大乗の菩薩の修行の
プロセスということでは
言葉は少し違うようですが
もとは同じことなのでしょう
やはり「十」という道程は
どこの宗派でも大事な
ことのようです
七ということが
大きな転換点のようで
これ以前とこれ以後とでは
内容が全く違ってくる
ようです
第七遠行地
遠くへ行く、と書きますが
意味は、行が完成した
ということで
これからは仏の世界です
第八不動地
もはや元に戻ることはない
という、不動
先生も、七地と八地
それに初歓喜地が面白いと
言われています
今、辞書を見ながらも
サンスクリットと対照して
見ても、その翻訳に
苦労のあとが見えるようです
し、その翻訳も面白い
ただ注目するのは
七地沈空(しちじちんくう)
という、空に沈むという
大きな難関があるのです
ここまでくると
もう上に求めるべき菩提も
なく、下に救うべき衆生も
いないという
理に沈むという
まあ頭でっかちになるような
理論だけでは
どうにもならない問題に
ぶつかってくるという
そこに方便智発起殊勝の行
ということが出てくるようです
現実問題です
理想だけになってしまった時
それを打ち破っていくのは
現実の諸問題です
経典では
諸仏が出てきて
励まされるという
そこで再び勇気を奮い起こし
さらに修行をしていく
そういう難関が
第七地という大きな問題が
あるのです。