一切衆生という
ありとあらゆる
生きとし生けるもの
ということを指すのですが
そこでは
自分は偉いもんだ
特別なもんだということも
許さんし
また、自分はあかん
駄目なもんだという
卑下することも許さん
そこに本当の平等という
世界があるのでしょう。
講義では
「一切衆生というものが、
一切衆生を一人一人が
代表しとると、
とともにまた自分も
一切衆生の一人だと。
自分が一切衆生の一人である
とともにまた
一切衆生を代表しとると。
一人一人が一切衆生だと。
こういうようなところに
やっぱり大乗というものが
あるんじゃないか。
声聞や縁覚というような
ことは、
後から
大乗が出てくるんじゃなく、
大乗というのが
一番基礎なんでしょう。
声聞・縁覚を通して
もっとその深い根元に
目覚めていくんです、
大乗は。
声聞・縁覚は
まだこれは学生ですわね。
学生といいうもの、
学生とか教師とかありますね
学生も人間ですし、
教師も人間でしょう。
人間というものを
学生と教師という形で
実現しとるんだ。
だから
学生や教師よりも先だって
人間がある。
人間精神というものが
大事なんだ。
大乗という方が基盤じゃ
ないか。
そこにやぱっり
教育というようなことに
なるというと、
法は一つですけど、
人間は無量無数ですから、
そこに一切智よりも一切種智
というものが必要に
なってくる。
だからそこで
無量種というようなことが
でてくる。
いろんなやり方で
というような。
あらゆる手を尽くして
ということが
教育になるんじゃないか。
一つの型にあてはめずに
人間のために型があるんで
あって、
型のために人間がある
わけじゃないです。
人間に合わせて
型というものを
生かしていかんならん。
型のために人間をはめ込んで
いくというのでは、
これは教育の逆でしょう。
だから
あらゆる方法を尽くして
というような意味が
あるんじゃないかと
思うですね。」
一切衆生という
その他大勢という
意味じゃなしに
自分が衆生を代表している
し、また
自分も一切衆生の一人
であると、
そういう責任感というものが
一切衆生という言葉のなかに
含んでいるように
思うのです。
それから、
一切智と一切種智と
弘法大師の作られた学校が
綜芸種智院という大学です
この綜芸種智ということが
一切種智ということと
同じ意味だと思います
ありとあらゆる種(方法)
手を尽くして教育する
綜芸種智院大学
最初聞いた時はなんとも長い
名前で意味も考えなかった
のですが
こうやってみてみると
綜芸種智院というなかに
弘法大師の思いが詰まって
いるように思うのです
「あらゆる手を尽くす」
綜芸種智です、一切智です
人を育てるということは
そういう意味があるのでしょう
千手観音という仏さま
千の手、ありとあらゆる
手を尽くす
ということが込められて
いるようです。
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