一切衆生悉有仏性
(いっさいしゅじょう
しつうぶっしょう)
生きとし生けるすべての人に
仏性、仏の精神が宿っている
ということです
これがもっと広がると
草木国土悉皆成仏
ということもあります
人だけではなく
心がないといわれている
草や木、はたまた国土も
仏になるという言葉も
あります
こういうことも
他人事ではなく
自分のこととして
受け止めると、やはり
安田先生の言葉になると
思います
「悉有(しつう)という
ようなことをいいますが、
それは共発(ぐうほつ)
という意味でもいいし、
共でもいいし、
同でもいいし、
また悉といってもいい。
一切衆生というものに
ことごとくもっとるような
精神ですね、
大乗というものは。
そういうものが大乗と
いうもんだろうと。
誰も持っとる。
どんな悪党も
どんなつまらん人間も
みなもっとるような法を
大乗というんじゃないかね。
ただ、
その人だけしかない
というようなのは
小乗なんじゃないかね。
あの人は頭がいいとか、
何か実行力があるとか、
腹が太いとかいっとるのは
小乗的なんだろうと思います
そうでないと、
どんなつまらん人間もですね
わしは駄目だということを
いわせんものが大乗ですね
わしは駄目だ、
わしだけもう駄目だと、
堪忍してくれと、
こういうようにいわせんし、
しかしまた、
わしだけがあるとも
いわせんのだ。
お前ら駄目やろと、
わしだけがあるんだと
いうようなことも、
抜け駆けの功名も許さん
のです。
そうかというてまた、
わしは駄目だということも
許さん。
威張ることも許さんし、
同時にまた絶望することも
許さん。
わしゃ駄目だ、というような
ことをいってるのは
謙譲のようだけど、
我執を捨てんから、
わしは駄目だと
いうことを言う。
また、我執があるからして、
わしだけやっとるんだと、
こうなるんですから。
そのようなものを
破るところにですね、
初めて静かなですね、
そういうところに初めて、
謙譲であっても
しかもお互いにいたわり、
人を叱りつけんというんだ。
お互いに
いたわっていくと。」
というようにありますが
仏性があるということは
いつかは仏になる
可能性があるということ
ですが、
呑気には構えておれない
のです。
そこには
自分はもう駄目だと
いわせない
ということがあります
このことは
修行時代分からなかった
ことがあります
きつくて、もう止めたいと
言った時に
なぐさめどころか
とてもきつく叱られた
ことがあります
そのこと自体が
分からなかった、
なぜだろうと
止めたいというのなら
止めさせてくれれば
いいものを
と思っていたのですが
自分だけが仏性があるという
自惚れも許さんし
反対に自分は駄目だと
といことも許さない
そこに
「悉有」ということの
厳しさがあるように
思うのです。
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