やはり人生において
誰と出会うか
出会いということが
その人の人生を大きく
左右するものです
そういう出会いもあれば
出会いということにおいて
教育、医療という
あらゆる分野においても
この出会いがなければ
成り立たないものです。
「教化(きょうけ)でも
教育でもいいんですけど、
先言った
出会いということでもですね
教師と弟子、
教師と生徒との出会い
ということですね、
先言った出会いという概念も
教育学の上に概念に拡大
されてくる意味が
今日あるんです。
教育という方面でも、
それから今度はもっと
広く言えば、
ただ子供の教育じゃない、
精神を病んだ、精神医学です
そういう場合に
やっぱり出会いという。
やっぱり医者、病人をですね
ただ生物として取り扱って
いるというのじゃなしに
ですね。
そういうときにはもう
汝じゃないわね。
患者は客体になっとる。
そうじゃない。
主体としてだ。
医療関係も人間と人間との
関係や。
治す治されるという形式を
通して人間と人間との出会い
がそこに行われる。
生徒を教えると教えられる
という関係において
人と人が出会うんだ。
教師も人であり、
生徒も人である。
同じく同等の権利ですね、
絶対の尊厳性ですわ。
生徒が教師の道具でもないし
それからまた
教師は生徒が雇ったものじゃ
ない、道具でない。
独立した存在者ですね。
けどそれを、
独立した人と人との関係を、
教え教えられる
というかたちで、において、
そういう事業において
一つの出会いが
そこに成り立ってくる。
そういうところに
だからして、
出会いということもある。」
やはり安田先生も
聞いておられる方々が
洛南高校の先生方ということ
もあって
常に教育ということと
宗教ということが
課題だったようです。
「宗教と教育じゃないんだ
宗教教育なんだ」
ということも常々語って
おられました。
こういう話しを聞かれた
先生方も常に生徒を
一人の独立した人間として
接しておられたようです
それは、言葉使いにしても
上下関係ではなく
対等という関係の言葉使い
をされていたようです
私にとっても
三浦先生との出会いが
私の人生を決定づけた
ように思います
そういうように
多くの生徒の方々も
その出会いによって
人生の方向付けが
決まった方も大勢
おられるようです。
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