「だから全部が妄想です。
妄想に悩んどるんです。
もし妄想でないならですね、
悩みというものは
ないずだと思うんです。
え。
苦しみはあるかも知らん
ですよ。
苦しみとか … 、
悲しみはある、
悲しみといったら、
まあ悲しみはある。
だけど苦しみはないと
思うね。
妄想を破った人に
悲しみがあるんです。
深い悲しみをもって見る
ということは、
妄想の夢から覚めた人にある
夢を見ている連中は
悲しみはせん、困っとるだけ
煩悩という字が
それを示しているわね。
煩い悩むんです。
平凡な言葉で言えば、
困ることや。
悲しんでおりはせんです。
それはみんな
全部我々が夢の中で作った
幻影というものにですね、
自分から作ったものに
自分が脅かされ、
もっといえば
脅かすものなくして
脅えとるんですわ。
我々は脅かすものを考えて
あれだから脅かすという具合
に考えている。
例えていえば、
これは例えですよ。
あいつはひどい、
わしに恥をかかせた、
あいつは憎い奴だというけど
そのあいつというのは
何だといいうと、
昨日の経験、
居りはせんそこに、
記憶だわね。
自分の記憶に
自分が腹を立てている。
あいつがひどい目をこかした
時、それは
昨日の話じゃないかね。
済んどるじゃないか。
まだ生きているのは
記憶が生きているんだ。
記憶というのは
自分の心でしょう。
自分の心に
自分が腹を立てているんじゃ
ないか。
妄想じゃないか、それなら。
それは一例です。
具体的な例をあげなければ
話が分からんから。
ところが人間というものは、
自分に来たときだけ
妄想ではないと思っている。
人の場合は妄想だと、
こういう具合に思うんです。
そういうようなもので、
人生というものは妄想だ、
妄想に苦しんでいる
というのが人生だ。
そういう出発点から
出発するところに、
道を要求するんです。
人生が妄想でないなら
道なんか要求せんです。
真理を要求したり、
美しさを要求したりする
だけの話でしょう。
また儲けを要求したり、
幸福を要求したり、
そんなもんですわ。
人生が自分の妄想によって
悩んどるというもので
ないなら、
宗教はいらんのです。
人生が私が苦しみ悩んで、
妄想に苦しんでおらんもの
なら
宗教は無用なものなんだ。
私が苦しみ悩んでいるのは
とにかく人ではないでしょう。
まあたとえ
人が苦しめたとしても、
苦しんでいるのは自分だけや
自分の問題でしょう。
たとえ
人が苦しめたというけど、
その人も自分の考えたもん
だけれども、
まそれは一応許しても
苦しんでいるのは
自分だけじゃないか、話は。」
ここの部分はとても思い出す
昔の苦しいことが思い出される
ところです
今思うと先生は
苦しんでいる事実を
丁寧に解きほぐし
話されているようです
「例えていえば、」
と
2度も繰り返して
例えといわれますけど
事実なんです
そして、この苦しみに
負けるな、のり越えて行け
という激励のようにも
思えるところなんです。
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