本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「穢を捨て浄を欣う」

2022-12-15 21:00:34 | 十地経

「『穢(エ)を捨て

浄(ジョウ)を欣(ネガ)う』

というのが、

道を求める動機なんです。

これでいい

ということではない。

これじゃいかん

というのが

『穢を捨て浄を欣う』

という意味です。

これではいかんというのが

ですね。

 

何かそこに、

これが私じゃあない、

もっと、

もう一人の私がおるはずだ

というようなわけです。

何か、長い間の習慣で、

これまでやってきた自分を

唯一の自分だと固執しとる

けれども、

しかし、もっと

本当の自分というものが

あるはずだ。

こんな小さいことに

引っかかっとるような自分が

本当の自分じゃないと、

もっと

大きな自分があるはずだと、

こうなりましょう。」

 

厭離穢土・欣求浄土

エンリエド・ゴングジョウド

ということがあります

苦しい穢土を厭い離れ

浄土を願い求めると

戦国武将の徳川家康の

旗印がこの文句です

この苦しい世界を離れ

皆が楽しめる国にするのだ

という思いが込められて

いるのでしょう。

 

ここでは、穢を捨て浄を欣う

という言葉です

ねがうという字も

願うという字もありますが

常套句として「欣」という字が

使われます

詳しいことは分かりませんが

欣喜雀躍という

おどり喜ぶということですが

欣という字はよろこぶ

という意味ですが、

欣求となると喜び求める

という意味になります。

 

「これじゃいかん。」と

もっと

本当の自分があるはずだと

こういう気持ちは常々

あるのですが

その本当の自分を求める

方法が分からず

ウロウロしているのが

私たちの状態です。

 

しかし、本当の自分

本当のことが知りたい

ということが

道を求める根本的な動機です

そこから自分をみて見ると

 

「惑・業・苦」

ということがあります

惑い患う、その根本は

無明という本当のことが

分からない

それで、惑ワクという 

迷い惑いことが根底にあり

その迷った心で

業という行いをする

それが意識として心に残り

苦として蓄積されていく

 

その蓄積された心で

その迷った心で次の業を

作って、それが心に残る

という繰り返しによって

自分という固執した自分が

作り上げられていく 

という悪循環が繰り返され

更なる迷った

自分を作っている 

というのが

今の自分のようです   

 

講義では

「求道心を起こしてみたけど                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

その求道心とうものを

完成するための行信やね。

行信ということを

やかましくいわれるのは

そういう意味なんです。

ところが、

そこに『行に迷い信に惑う』

という。

迷い惑う。

 

その行というものによって

自分を対治しようと思うと、

その対治する行よりも

対治される障りの方が

大きいのです。

泥沼に入ったようなものだ。

もう入る途中で

やめてしまおうか

というようなもの。

こういう苦難がある。

 

けどそこに、

自分を翻して新しい行信

というものを見出してくる

場所なんです。

苦労があるところこそ、

苦労を越える道を

見出すところなんです。」

 

というように

続いていくのですが、

なかなか自分に当てはめると

難しいことなんです、が

そこに十地という意味が

あるように思うのです

そういうように

講義は続いていくのです。

 

 

 

 

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