本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

如来蔵「如来において在るもの」

2022-12-19 20:25:05 | 十地経

如来蔵という言葉があります

「蔵」という字も大事な

言葉で、

蔵という意味は

容器、穀倉、籠、

暗記されたものということで

お経も最初は

口伝えに暗唱されたもの

ということでしょう

仏教のすべての経典を

収めたものを「大蔵経」と

いいます

具体的には「三蔵」と

いいますが、詳しくは

経蔵・律蔵・論蔵という

のです。

それを略して経・律・論

といいます

この三つの蔵を修めた人を

三蔵法師といいます

玄奘三蔵が有名ですが

他にも三蔵と呼ばれる方は

いらっしゃいます

 

如来の蔵

如来を蔵している、という

ことですが、

講義では

 

「自分というものは、

仏教の立場からいうと、

如来をもっとるんです。

如来の行をもっとる、

本来はね。

 

だから、

私はどんなものであるか

というっことは、

私の判断では決まらんのです

 

それを決めてしまうところに

何か知らん、

非常に越権ということが

あるんですよ。

私は偉い者だという言い方は

まだ、

そう偉くないんだ

という具合に、

反省することができるけど、

 

私はあかん者だというのは、

もっと悪い判断なんだ。

わしは駄目だ者だという

ことがですね、

それは冒涜に近いですわわ。

自己冒涜というような

ものです。

 

そういうふうに、

自分を決めてしまう

ことがですね。

実は、

人間には、人間の分別では、

分別できないような、

大きな何かをもっとるんです

それを如来蔵というんです。

あるいは、仏性というような。

 

「如来において在るもの」

 

というんです。

何か、それが

一番いい言葉のようです。

 

ハイデッガーの言葉ですが

世界ない存在という。

世の中に生きている、

世の中においてあるもの

という意味が

人間なんですわね、

現実の人間と。

 

ところが、仏教では、

如来においてあるもの。

人間が如来をもっとる

といいうのは、

まあ、

人間の側からいうんだけど、

本来的な構造は、

 

そうじゃなしに、

如来において人間があるんだ

と。

人間が如来をもっとる

というんじゃない。

人間はかえって

如来を隠しているものだ。

隠れとるんじゃないと、

如来は。

人間の方が隠しとるんだと、

忘れとるんだと。

 

かえって、

人間は忘れても

如来は人間をもっとるんだ。

こういう構造ですね。」

 

如来において人間がある。

如来が人間をもっとる。

人間が如来をもっとる

というんじゃない。

こういう文が続くのですが

なかなか、微妙な表現です

また、厳密な表現です

ここのところを取り違えると

大きな間違いを

犯してしまいます。

 

このことは引き続き

出て来ますの

注意深く読んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 未熟だという障り | トップ | 終い不動・納めの不動 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

十地経」カテゴリの最新記事