本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

我々は解釈された現実に生きている

2022-12-12 20:59:56 | 十地経

真言宗の中興の祖といわれる

覚鑁(かくばん)上人が

お書きになった

『密厳院懺悔発露文』

(みつごんいんさんげ

 ほつろのもん)

の書き出しも

「我等懺悔す 

無始よりこのかた

妄想に纏われて衆罪を造る」

という文句で始まります

 

この「妄想」モウゾウ

ということが迷いの始まりで

講義ではこの妄想について

繰り返し出て来ます

 

「我々は病気している、

その病気はどういう

病気かというと、

妄想から病気しているんだ。

無明の酒に酔うて妄想から…

これは大事なことです。

我々は正しい世界に

生きているんじゃないです。

 

人間というものは

現実に生きている、

 

現実に生きているなどと

人間の言うことは

当てにならんのであって、

人間というものは

はや解釈しているんです。

 

我々は解釈された現実の中に

生きているんだ。

損とか利益とか事業とか

正しいとか正しくないとか、

全部それが一つの

人間の解釈したものなんです

 

本当の事実の中には

善も悪もないんですわ。

そして、あの、

そういう悪がなくても

善があり、

善がなくても悪がある

というように決めるんです、

実体的にね。

 

そして責任でも無責任でも

みんなそういう具合に

人間というものの世界が

そこにできあがるんだ。

そういうように

つまり善悪をそこに実体化

するんです。

善悪という言葉に

迷うんです。

絶対化してですね、

そしてそこに

ひとつの実体を作るんだ。

 

そして

その作った実体に

人間は支配されるんだ。

それで苦しむんです。

自分の作った、

 

自分の作ったものによって

自分が脅かされとるんです。

息のできんほど

脅かされている。

それは何も

人が脅かしているんじゃ

ないんですわ。

あいつが悪いから

わしはひどい目にあっている

と、そうじゃない。

あいつというものを

作っているんだ。」

 

実は私もずいぶん

悩まされました

今でも時々夢にでてくる

ほどなんです。

いろいろあって

どうしても悪いあいつを

作り出して

その自分がつくったあいつに

悩まされる

そのあいつというのは

今ここにいないのに

記憶の中に出てくる

その記憶に腹を立てている

 

このページも

講義でも聞いたのに

ふと出てくる

ずいぶん心の奥にまで

浸透したもんです

言われてみると

おかしなもので

自分の記憶に自分で

腹を立てている

 

こういうことが

妄想ということでしょう

迷いの根本です

人間というものは

本当のことが分からない

分からなかったら

そのままでいいのですが

 

次に間違いを起こすのは

本当のことが分からないと

本当でないものを

本当のこととして

それに固執してしまう

 

という構造が

迷いの構造で根本です

「妄想に纏われて

 衆罪を造る」

とありますが

この妄想から人間は

迷うしまた罪を造る

テレビ新聞をにぎわす事件も

この妄想が始まりです

 

この妄想ということが

ずっと続いていきます。

 

 

 

 

 

 

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