本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

参与(個人を超え歴史に召される)

2022-12-05 20:49:39 | 十地経

「歴史」という言葉が

よく出てきます

ただ、何年に何があって

というような年表的な

ものでなく、

上手に言えないのですが

講義の文を読んでください

 

「人生というものを

舞台に乗せて、

舞台の外から、

人生の外から人生を観察する

というときに、

やっぱりそこに

人生観とか世界観とかいう

言葉がある。

 

傍観という立場がなければ

学問は成り立ってこない。

中に巻き込まれとったんでは

しかしその、

よく考えてみると、

舞台の中に乗せることが

できるものが歴史だ。

 

歴史を観察するというが、

観察することのできんもの。

歴史を観察するといえば、

自然を観察するのと

変わらないものに

なるでしょう。

歴史は観察できないものだ

ということがですね…。

 

なぜかといいうと

歴史を観察するということが

歴史の中にあるんですから。

歴史を観察するということが

そういうことが

可能であるのはやっぱり

そういう歴史的段階なんだ。

 

仏教の歴史というものは

教理というような

ものじゃない、

仏道がそこにおいて

行ぜられとるという歴史です。

そういう歴史を我々は

傍観することはできない。

そこに、

その仏教の行としての

歴史に会う。

 

そこに我々は歴史を

生きんならんように

させられる。

傍観しとらずにですね。

歴史が生きとる、

生きている歴史に会えば、

自分もその中に、

そういうことを参加という、

参与ともいう。

 

ティリッヒという人が

いますが、

あの人がよく使う概念です。

参与ということも、

非常に大事な概念の一つです

参加するといってもいいです

参与すると。

 

生を共同するんですわ。

個人を超え、歴史に召され、

かつ

歴史を生産していくんです。

歴史に生まれ、

また

歴史というものを生んでいく

 

もう個人というものが

そこにないんですわね。

そういう時にはじめて

我々はね、

使命ということがそこにある

 

自分の好きなようにする

ということはなんか

いいようだけど、

それほど自分はつまらんもの

なんだ。

止めようと思えば

止められる、

やろうと思えばやれると、

自分の自由になると、

それほど

自分の自由になるほど

自分はつまらんもんです。

 

そうじゃない。

やりたくなくても

やらんならんという、ええ。

やりたいか、

やれるかやれないか、

やりたくないかやりたいかを

越えてやるという。

 

そういうところに、

自分の生きている

ということに、

自分の興味でどうにもならん

そういうものを使命という。

そうでしょう、使命や。

清沢先生は、

それを本分といってますわね

本分。」

 

難しいようで

なんとはなしに頷ける

一文です。

 

自由というけど

自分の思う自由という

ことはたかがしれたもんです

まあ、

西洋では奴隷制度があり

その開放ということで

自由という

そういう意味では

重いものがあるようです。

ここでは

自分の思い通りになる

そういうことです。

 

自分の興味でどうにもならん

そういうところに

使命というものがある

のですが、

まだ、

自分の興味でどうにかなる

と思っているのです

好きなことがやりたいことが

それができて幸せと

しかし、

本当は

自分でもどうにもならない

ものがあるのを

うすうす感じ取っている

やはり究極は

召されているのでしょう。

歴史に。

 

 

 

 

 

 

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