先生の講義も遅々として
進まない、
やっと一つの段が終わって
次に進むのかと思いきや
月が変わると
また同じところから始まって
いるのです。
娘たちから言わせると
その話は前に聞いた!
何かも同じ話をして、と
老人六歌仙ではないですが
「またしても同じ話に
孫ほめる
達者自慢に他人は嫌がる」
というのがありましたが
同じ話が
よく出てくるものです。
同じことばかり言って
ボケたの?
といわれそうですが
お寺の仕事の一つに
人様の悩みを聞く
ということがあります
この時も同じ話を
繰り返し聞くことになります
この時もじっと聞いていると
同じ話しながら
次第に変わって
いっているのです
同じ話しなのですが
少しづつ展開していく
話されている方も
興に乗って話が弾み
思わぬほうに話が進み
自分で解決の糸口を
見つけていかれる
ということがよくあります。
先生の講義と
同じにするわけにはいかには
いかないのですが
先生の話も
聞いた言葉は出てくるのです
が、そこからの展開が
また違ってくるのです。
別な見方をすれば
よくもまあ同じ経文で
また新たな見方が
できるものだと驚きます。
「遠行地第七。
論じていわく、
第七地中五種の相の差別あり
第一は楽無作行を…
楽という字は
たのしむという意味と
ねがうというふたつの、
漢文の文字としては
二つの意味がありましたね」
と、
また先月読んだところから
始まりました。
ところが、
そこからの話の展開が
今度の講義では
「人というのはプドガラ
という言葉で表される。
プドガラというのは
翻訳すれば数取趣サクシュシュ
という意味を含んだもの
をいう。
数取趣はしばしば趣を取る
ということです。
趣は五種、
道といってもよい。
道の場合は六道という。
趣も道も同じであって、
これはシチュエーション
存在者の境遇を表す。
だからして我々が人間に
生まれるということは
初めから決められて
生まれてくるわけじゃない
我々自身には
数取趣は衆生という概念
衆生というのは
必ずしも人だけじゃない。
五つある。
五つを含めて衆生という。
地獄も餓鬼でも畜生でも
全部衆生です。
人もその中の一つ。
人というのも
存在者の一つの状態に
外ならない。
人も存在者の一つの場合だ。
人だけが勝れている
ということはない。
だからどの趣を取ろうが
その衆生にとっての勝手です
何も別に神が決めた
というわけじゃない。
自分が自分によって
自分の運命を決定していく。
趣を取る、
それが業ということです。
業によって趣を取る。
衆生は煩悩によって
業を起こし、
業によって自分の趣を取る。
その趣において、
そのことによって
未来の趣を約束する。
いま業を作って
いま果を受けるという
ことはない。
いまはすでに決まっている。」
というように
話は展開していきます。
なんだか不思議な気がします
経文は同じなのに
講義となると
新たな言葉がうまれてき
また違った内容の話が
広がっていくのです。
こういうところに
先生の講義の魅力が
あるようです。
やはり、繰り返す
ということは大事なことです
愚痴でも
何回も聞いているうちに
自分で自分の問題を
解決に導くということが
あります。