本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「知る」ということ

2022-01-26 20:13:25 | 十地経

物事を知るといっても

いろいろな知り方があって

よく三浦先生は

こういう譬えで

話しておられました。

 

水というものを知る場合

常温では液体

100度以上では気体

零度以下になると個体となる

と、そういう

科学的知り方もあれば

喉が渇いた時

飲んだ水の味はというと

何とも言えない美味しさ

という知り方もあります。

こういう知り方が

主体的真理であると

このように

話しておられました。

 

今では知ると言えば

科学的知り方が重要になって

主体的な知り方は

個人の問題としてあまり

重要視されないようです。

 

そのことを講義では

「空ということは

空ということを分別しとるん

じゃない。

空ということに触れた

ということは、

ノエマ的に空ということに

触れたということは

ノエシス的には無分別に

なったということです。

空というのもやはり

一つの真理、

やはり空ということも

知られたことなんです。

知られなかったら

何もあらせん。

空も無もない。

やはり空ということは

知られたことだけども、

しかし空と分別され、

対象的に知られたことじゃ

ない。

 

まあ主体的に

知られるといいますか、

実際いうと主体的に

知られるのは感という字、

感覚とか感情という字が

主体的な知り方

というものじゃないかと

思います。

感ずるのは

単に知られたんじゃない。

感ずるということは

知ったということと

反対の意味じゃなしに、

感ずるということが

主体的に知ることだ。」

 

先生の本に

『感の教学』という

ものがあったように

思いますが

感ということを

とても大切にしておられます

前の話にもあったように

知の世界は薄っぺらいもので

知るといっても

頭で知るのではなく

腹の底まで届き

腑に落ちるという言葉も

あるように

腹の底に響いてくる

そういう知り方が

本当の知り方です

「うなずく」という知り方

何かしら

聞法ということも

そういう話しの聞き方の

ように思います。

 

講義ではそこから

デカルトの

「我思う故に我あり」

という言葉から

知るということの意味を

掘り下げて行かれます。

 

 

 

 

 

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