普通には人が生まれる
ということは
あかちゃんは何ものにも
染まていない純白な心で
生まれてくると
そしていろいろな経験を積み
色々な色に染まり
その人の人格を形成していく
というのですが、
仏教ではどうも違うようです
講義では
「人間は生まれてきたときは
裸で生まれてきたと
考えやすいね。
やはりそれは一つの思弁
ではないかね。
人間は裸で生まれたものは
ありはしない。
裸であるようだけど
背負うて生まれてきている
白紙にかえってと
いうてみたところで、
白紙にかえれるものではない
何か知らん、
そこには現実という
世界の大きさがある。
もう、はや
おちゃめのときから
違っている。
頭の悪い生徒はなんぼしても
それはもうやはり悪いです。
よくできる生徒は
かまわんでもちゃんちゃんと
やってきておる。
そこら、
人間の規定というような
ものはこの生では決めれん
もんではないかと思う。
やはり何か、
過去を背負い
未来をはらんでいる
というようなものが
あるんではないでしょうかね。
仏教でよく
倶生起クショウキということを
いう。
分別起フンベツキに対してね。
あらゆる煩悩というものを
取り扱うのに、
煩悩そのものは同じだけど
煩悩についても
倶生起の煩悩と
分別起の煩悩と区別する。
これは非常に精密な分析です
つまり、人間から、
生まれてから起こったのを
分別起の煩悩という。
けれど生まれると共に
もってきた煩悩がある。
裸じゃないわね。
煩悩をもって
生まれてきておる。
生まれてから起こす
煩悩もあるけれど、
それなら初めて生まれた時は
裸であるはずだけど、
裸のようだけど実は
裸ではない。
裸の人間がやはりもっておる
煩悩というものをもっておる
業の因果ということがあるが
業の因果は必ず二世にわたる
ということがある。
二つの世代にわたって
業というものがある。
ある一つの世代で
業をつくって、
その同じ世代の中で
他の生を受ける
ということはない。
業をつくるということは
この生であるけれども、
その業が約束する結果は
次の生であると、
こういう具合にして
二世にわたるということが
考えられとる。
非常に分析が厳密ですね、
空論ではない。
こういうところがですね…。
だから、
今私がこうしてある。
今私がこういうようにある
ということは
生まれてからつくったこと
ではない。
昨日の私というものを
今果たしているわけです。
昨日の私というものに
答えているわけです。
昨日の私の生活に答えている
応答なんです、
今生きているということは。
昨日の私に対する
応答でありつつ
未来の私に対する
一つのですね、
未来の私というものを
そこに創造、
創作・創造というような
意味をもっている。
現在というものは、
過去に対する答えであり、
未来に対する約束である。
過去の約束を果たし、
同時にまた
未来を約束するということが
この現在の生であると、
こういうようなことが
考えられる。」
というように、
ここのところはなかなか
考えさせられる問題です。