「コギト・エルゴ・スム」
(cogito.ergo.sum)
デカルトの有名な言葉で
日本語では
「我思う故に我あり」
といいます。
いろいろ懐疑的に疑っても
その疑っている私がある
ということは疑えんだろう
というような意味です。
ちょうど講義では
「デカルトは
『我思う故に我あり』と
いうことで、
思惟ということで、
思惟する自己、
自己とは思惟するものである
が、
そういう私があると、
である私があると思惟する
私が存在しとる。
私がある。
私であるという意味もある。
私は何であるか。
思惟するものである。
そういう私がここに思惟する
ことにおいて、
… があるわけです。
こう言って、
デカルトのああいう
有名な言葉がありますけど、
何かちょっと
もの足らんところがある。」
デカルトは1596年~1650年の
フランスの哲学者です
それより1000年も前の
アウグスチヌスの話が
出てきます。
アウグスチヌスは354年~430年
の人です。
「これは古い話ですけど
アウグスチヌスに『神の国』
という本がある。
三位一体ということを
述べている本ですけど、
その中に非常に哲学的な要素
を含んどる部分がありまして
こういうところがある。
(第一)私は私が存在する
ということを知っています。
第二には、その存在する
ということを知る
ということを知っています。
(第三)更に、
存在するということを
知るということを知って
これを愛します、と。
三つある。
あるということと
知るということと
愛するということと
この三つで非常に深い問題に
触れてます。
デカルトは初めの二つを
おさえた。
あるということと
知るということ。
我思う、
だから私はあるとこういう。
思惟が存在であると、
こういう認識というのが
今の哲学では根本智になる
わけでしょうね。
唯物論とか唯心論とか、
それは第二義的な話なんです
やはり唯物論者でも
承認せんならんような真理
がある。
それが、
存在するということは
知るということだと、
こういうことは
唯物論の立場に立っても
承認せんならん前提になる。
すぐそれは観念論だと
いうわけにはいかない。
デカルトは二つを言ったけど
アウグスチヌスには愛する
ということがある。
そういうようなところが
やはりなにか、
デカルトよりも
アウグスチヌスの方が
深いものをもっているという
感じがする。
思想家として。」
空とか智とかいう話しが出て
デカルトとか西洋哲学の
「知る」ということが出てくる
のですが
知る、智といっても
あらゆる方面から
見ていかれるところが
面白いのですが、
「ある」ということも
「私がある」という
以前から気になっていたこと
で、
シナイ山でモーセが神と
出会う
あなたは誰かと
尋ねると、
神が「Ⅰ am who Ⅰ am」
と答える
「私は在りて在るもの」
ということですが
どうもわからなかった
あるとき
子どもの話で
先生から名前を呼ばれた時
who Ⅰ am
と答えるそうです。
何かそこにヒントがあって
「私はここにいます」
というそういう存在を
名乗りを上げるような
感じがしたのです。
わたしがある
私があることを知る
そしてさらにそれを愛する
洋の東西は違えども
何か共感するものがある
ような気がしました。