行ギョウということが
なかなか難しい問題で
どうも翻訳しにくい言葉だ
そうです。
ある時、
比叡山の千日回峰行を
海外のテレビ局の取材で
ワンサウザンド
ハードトレーニング
と訳していました。
どうもしっくりきません
向こうの方から見れば
行はハードトレーニング
ということでしょう。
十地経の講義では
ないのですが
このことについてこのような
・言葉に出会いました。
「行者という意味ですが、
鈴木大拙先生が『教行信証』
の行を英訳されている。
教・行・信・証とあるが、
一番難解なのは行なのです。
教も信も証もだいたい
中アタらずと雖も遠からず
という概念は見つかるのです
が、行はなかなかないのです
行はドイツ語のタート(Tat)
がいいのではないかと、
英語ではアクト(act)ですか
こう思っていたのです。
普通一般には
プラクティス(puractice)
という訳語をあてるのです。
しかし
どうもそれではまずいと、
何か実践箇条、箇条書き
みたいになる。
鈴木先生は
リビング(living)という
訳語を与えられた。
鈴木訳の大きな特色です。
リビングの ing というのは
英語独特の、
英語がもっている非常に
特色のある進行形です。
ドイツ語にはないのです。
道元禅師の『正法眼蔵』の
中にやはり、
「仏になりつつもて行く」
というのがある。
仏であるとか仏でないとか、
そういうことは言わない。
仏になりつつ行くと、
なりつつということがある。
信仰は信じてしまった
というものでなく、
永遠に過程だと、
こういうことを言われる。
「白道」という言葉が
あるでしょう、
人間は道なのです。
道を歩くと言っても、
人間が歩けばそれが道に
なっていく。
ニーチェに
ユーバーメンシュという
言葉がありますが、
人間を超えていくものが
人間なのだと、
人間が人間を超えていく過程
ユーバーメンシュだ。
ニーチェは「橋」という字を
使っています。
善道大師は「道」という字で
表している。
固定したものではない、
無限に自己を破ていく
ものです。
それを求道心というのです。
そこへ停滞したら
その人の思想は止んだのです、
止んだら、
そこで堕落が始まるだけです。
だから、ing ということで
行をリビングと訳すなら、
行者は生活者という意味でしょう。
信仰は生活者を生み出す。
以前、ティリッヒが日本へ
来られた時の話ですが、
東京でいろいろな仏教学者に
会ったが、
しかし
仏教の学者はおられても、
仏教に生きた人がいない、
仏教の学者はいるけど
仏教を生活的に分かっている
人がいない、
つまり仏教を身証している人
がいない。
京都にはまだそういう人が
おられると、
こういうようなことを言って
おられた。
だからして、
仏教に生きている人が
なければ何もない。
それでは仏教に生きている
人はどうして生まれるのか。
これが教学の問題、
大事なことです。
仏教に生きている人を
どうして作るのか。
それで教育という問題が
大きいのです。
大きいけれども、
今の幼稚園から大学まで、
真の生活者を作る教育は
ないのです。
ないというより、
いろいろ模索している。
ないと言って馬鹿にしている
意味ではない。
ほっておけないのですから
いろいろ真面目な試みがある
政治とか経済とか
言うけれども、最後は
人間の問題になる。
人間の問題なら
教育でしょう。」
とあるのです。
人間の問題となると
宗教と教育ということが
重なってくるのです。
とても響く言葉でした。
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