本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

一切をやってしかも一事もやってない

2022-01-23 20:20:33 | 十地経

ここのところの経文は

「功徳の法を起こして

増上波羅蜜の行を作すも、

しかも法として

取るべきこと無し」

という文です。

何のことか分からない

のですが、

 

先生の説明は

「色々なことをやるけれども

やったという意識はないんだ

というわけです。

一切をやっても、

しかも一事もやっとらん。

やったという意識が入れば、

もうやったことにはならん。

本当にやった人には

やったという意識はない。」

 

というようになっています。

本当にやった人は

自慢することもなく

本当に謙虚な人だと思います

 

思い出すのは

安田先生自体ご自身で書かれた

という本は一冊もないのです

先生の話をテープに取り

それを書き起こして

本にして出版されたようで

それも有志の方々によって

最初はガリ版刷りのものを

読みたい方に配布された

というのが始まりです。

 

ある時、

先生の本も出版され

ある人の提案で先生の全集を

出版しようという話しが

持ち上がりました。

そのことを先生に話すと

そんなものは出す必要はない

ときっぱり断られた

というこいとです。

 

その時、

お経はお釈迦さまの話に

感動した人たちが作られた

のですよね! と

三浦先生が尋ねられました。

それはそうですね。

ということで

先生の話に感動した人たちが

集まり全集を出す運びに

なったのです。

 

先生も話の中で

トマス・アクイナスという

キリスト教の神学大全という

膨大な本を書かれた方が

亡くなる時、

あんなものは焼いてしまえ

といわれたということです。

この本も口述で書かれ

それは神が乗り移ったように

話しが次から次へと

湧き出るように飛び出してきた

ということです。

 

よくは分かりませんが

話している時が全てで

書き写したものは

もうカスのようなもので

もうそれは終わった話で

生きた話ではない

ということでしょう。

 

よく先生は

書きとる必要はない

目をみてじっと聞きなさい

と仰っておられました。

本当に感動したものなら

心に残るだろう

その感動した言葉を

一つでも実践することが

聞法することの意義だと

話しておられました。

 

話しは

えらい身近になりますが

女性の方を見ていると

日々の食事

誰に恩を着せることもなく

やった、してやった

ということもなく

されていることは

この経文の一文のような

気がします。

「一切をやってしかも

一時もやってない」

ということに当たるよう

ですね。

 

「雑事は仏事」

ということもあります

何でもないような

当たり前のこと

そういう雑事こそ

本当は仏さまの仕事

というわけです。

人が驚くような修行だけが

行というわけではない

ようですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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