お経を読む時に一番最初に唱える
句が「開経偈」といいます
その最初の一句が
「無上甚深微妙法」という
言葉になります
ところが今頃になって新たな発見
というか、文字の誤りに
気がついたのです
もうかれこれ何十年も
使っている経本です
補修しながら、火災の折には
消防の水にかかり
厚さも膨らみ今やもとには
戻りません
いっそのこと買い替えようかと
思ったのですが愛着もあり
使い慣れたものは
それなりに手に馴染む物です
その一句の言葉が、経本には
「無常」と書いてあるのです
この無常は常が無いということで
諸行無常の「無常」です
ところが
無上甚深微妙法のときは
上が無い、比べることが出来ない
という意味で「無上」と
なるのです
面白いことに今の今まで
何十年も目を通しているのに
その違いに気がつかなかった
もう、毎日経本を持たなくなって
こういうことに気がつくとは
見ているようで見えていなかった
分り切ったこととして
目が通り過ごしていたのでしょう
そうやって
あらためて
この一句を読んでみると
実に意味が深い内容を含んでいます
仏教といえばこの開経偈に
尽きるのではないかと
思えるほどです
「無上甚深微妙法
百千萬劫難遭遇
我今見聞得受持
願解如来真実義」
無上甚深微妙の法は
百千万劫にも遭い遇うこと難し
我今見聞し受持することを得たり
願わくば如来の真実義を
解し奉らん
という読み下しになります
この上無い(比べようもない)
甚だ深くて微かで妙なる法は
百千萬劫にも遭い遇うことが
出来ない
「劫」コウというのは
非常に長い時間
1劫が4里四方の石の上に
百年に一回天女が降りてきて
舞を舞う、そのはごろもで
磨れて、四里四方の石がなくなる
のを1劫というのです
そういう偶然の絶妙のチャンスに
私たちは生まれている
ということなのです
もし、お釈迦さまの前に生まれて
いたら、その教えを
聞くことが出来ない
また、牛や馬に生まれていても
教えを聞くことが出来ない
そういう意味が
難遭遇ということでしょう
「有り難う」という言葉も
有ること難し
百千萬劫難遭遇ということから
すると
教えに出遭うということは
有ること難しです
有りうべからざることに
出遭ったというのです
それで、有り難う、という
感動の言葉でしょう
そういう教えに
我今、わたしは今
よく見て聞くことが出来た
それを受持して
自分のものとして身につける
ことができる
願わくば、如来の真実の義
如来の本当の教えを
解し奉らん、
ここらやっとスタートできる
初めがあるということです
『十地経』の初歓喜地に
当たる言葉でしょう
私たちは生まれた時が
始まりのように思いますが
精神生活という面からみると
この開経偈が分かった
ということが始まりになります
なかなか、
始まりが見つからないのです
どうどう巡りで
一向にまず一歩が出ない
その内その内と思っている間に
気がつけば
そろそろ、棺おけに一歩が
入りそうな時になっています。
何気なく、
すらすらと読んでいますが
今一度意味を考えてみるのも
大事なことでは
ないでしょうか。
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