同じ漢字でも仏教では
独特の解釈と読み方をする
場合があります
この「楽」という字ですが
普通にはラクまたはガクと
読みますが
この字に信が付くと「ギョウ」
というように読み
意味もねがう、というか欲と
意味合いも出てきます
ですからお経では
「信楽」と書いて「シンギョウ」
というように読みます
地名ではシガラキと読みますが
講義では
第七地の中に五種の相の差別が
ある、ということでその第一が
無作行を楽しむことを対治する
ということが出てきて
その楽しむということについて
「無作行を楽しむという意味と
楽う(ねがう)という意味が
あります
楽(らく)という発音と
楽(ぎょう)という発音と
楽(ぎょう)と発音すれば、
楽う(ねがう)といいます
楽(らく)といえば楽しむという
信楽欲生
(しんぎょうよくしょう)と
いう具合に、楽という字がある
楽と欲という字は同じことで
欲というのは、
願うことを欲というのであって
ここでも
無作の行を楽しむと、
あるいは楽う(願う)と
その楽うということが
一つの過失になるんです
…
その楽というのはやっぱり、
愛というような意味が
ここにあるんです
仏法を愛楽するという
その愛というのは、
執着するという意味がある
仏教の古典では
愛という字は、やっぱり貪愛と
いいまして
煩悩の心理になるわけです。
愛という言葉も非常に広い意味で
ただ感性的な意味の、
ばっかりが愛じゃない
やっぱり理性的なものに対しても
愛という字が使われます
Eros というような字もあります
仏教でも Eros というような
場合は法愛といいまして
法に対する愛
恋愛という場合は
人に対する愛もありますが
法に対する愛もある」
というように出てきます
それからよく話されていたのは
フィロソフィーという哲学と
訳されますが
この言葉も元は愛智といって
智慧を愛する
ということがフィロソフィーの
本来の意味だ
ということです。
また「愛」という言葉が
広い意味を持っているのは
辞書をみて見ると
「愛」という言葉も
サンスクリットの二つの言葉
から出来ているということです
一つはトリシュナーの訳で
ものを貪り執着することで、
あたかも渇いた者が水を求めて
止まないように
欲望の満足を強く求める心
ですから渇愛とも訳されます
もう一つはプレーマの訳で
これには汚れた愛と清らかな愛
の二つがあるといいます
汚れた愛は貪で
清らかな愛は信であるといいます
これを欲愛と法愛といいます
この中で法愛は
一切衆生を慈愛する慈悲心
であるといいます
こういうようにインドの言葉の
二つの違いを一字で表現した
ところに愛という言葉が
広い内容を含んでいるのでしょう
愛別離苦の愛もあれば
愛染明王という仏さまもあり
また、西洋では
LOVE というと最高の価値観
のような意味も持っています
哲学的には
Eros という愛もあれば
agape という神を愛する
ということがあります
が、講義では
「どんな神であっても、
愛ということには一つの
着するという意味があるでしょう
真理でも愛着されたら
やっぱり人間的なものになる」
というように述べておららます
講義ではここから
さらに「愛」についての話が
展開していくのです。