日本の学力も世界に比べると
段々と落ちている
ということを耳にします
世界の大学への進学の減ってきて
全体からみると取り残されている
ようにも見受けられます
聞くところによると
日本の教育は100年前と
ほぼ同じということです
以前は、均一化された人間を
作り出すということで
押しなべて平均化した人を
作り上げるには便利だったのかも
しれません
今日のように個性が重要視される
時にはこの平均化ということは
個が育たなくなり
色々な弊害も出てきます
ほんの百年前、江戸時代は
歩いてどこへでも行く
それがわずか100年で
車があり飛行機があり
地球上どこへでも行ける
という時代になってきました
石炭から石油になりこれからは
電気の時代です
そのように科学や社会は変化
しているのに教育だけは
旧態依然として
100年前の教育をしている
ということです
先生が教えることを暗記して
設問に答える
それが立派な人優等生という
ことになっています
自分で考え問いを発し
答えを見いだしていくという
教育は少ないようです
ある教え方を見ました
自然の中でいろいろの体験をさせ
その中でどのように感じたか
そして
どのような疑問が起こったのか
それを解決するのは
どのようにしたらいいのか
そういう問いかけです
そして
人とモノにしても
その関わり方には
表面的なものでなく
接しているのは氷山の一角で
その見えない水の下にある部分
まで考えさせる
ご飯一粒にしても
それが米となって口に入るには
どれだけたくさんの関係性が
あるのかということを
考えさせる
ですから、出てくる答えは
人それぞれ
一つとして同じ答えはないのです
それでいて間違いではなく
全部が正解という
それぞれが問いを学び
そして答えを導き出す
というものです.
これからはそういうような
教育方法が求められるような
気がします
何だか、仏道修行のようでもあり
それぞれがそれぞれの問いを発し
自分が頷くものを見出していく
といっても
勝手に思い思いが好きなことを
するというのではなく
そこには
氷山の根底にあるものを
教えていくということが
あるようです
教育方法はそれぞれあると
思いますが
今一度
古典に立ち返って
先人たちはどのような教育を
目指したのか
そこには
こういう人になって欲しいという
人間像があったはずです
弘法大師空海は
日本最初の私学を作られました
その時の願文に
「物の興廃は必ず人に由る
人の昇沈は定めて道にあり」
ということを述べられています
その道(仏道)ということで
(人が本当の人になっていく)
如何に教育が大切か
ということで最初の私学を
建立されたのです
同時代に比叡山の最澄は
山家学生式で
「国宝とは何物ぞ
一隅を照らす
これを国宝と名く」
ということを述べておられ
それを実践されたのです
平安の時代には
こういうはっきりとした
人間像があったのです
それであのような平安な時代が
続いたのでしょう
教育を考えるには
どのような人間を作るのかという
人間像が大切なように思います
が、
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