止観均等、止と観が均等する
ということです
なかなかどちらかに偏って
止と観とが均等するということ
なかなか等しくならない
講義の中で
西田幾多郎さんの日記を紹介
しておられる
「西田先生、若い頃よく日記を
書いて色々反省しておられる。
日記だから嘘は書いていない。
それに
今日は菓子を食い過ぎた
というのがよく出とる。
面白いね、これは。
僕らも身に覚えがある。
それから
本を読み過ぎたというのがある
つまり、止が勝つ。
本読むのは止だ。
そして思索しないのは
観がないんだ。
本を読み過ぎて、
一向自分で考えるという
努力がなかった
という反省をよくしとられる。
つまり多読の過失だ。」
ということを語っておられます
それとは別に
このことを読みながら
ふと思ったのは
自分のことで、
毛虫退治のことなんですが
止観ということとは
当てはまらないかもしれませんが
松の木に付いた虫
木の下を見ると緑色の糞が
回りに散らばっている
虫がいるに違いないと
松の木を見るのですが
虫を発見できない
じっと腰を据えて見ていると
いました、いました
今まで見えてなかった虫が
見えてきたのです
通り一遍見たぐらいでは
見つからなかった虫が
じっと見ていると
目が緑の葉の色に慣れてきた
のでしょうか
不思議なくらい
ここにも、あそこにも
松の葉っぱと同化した
緑色の細長い松葉の様な虫が
見えてくるのです
これも止観でしょうか
じっと止まって観ると
今まで見えていなかった虫が
見えてくる
じっと止まって集中する
ということでは
止観に似たものがあるかも
しれませんが
自分自身を見る
ということにおいては
止観と違うかもしれません
やはり止観ということは
他を見ることもさることながら
自分自身を見る
ということが本来の意味でしょう
講義ではさらに
「人間にとって
自己というものは
自己を考えるということは
できんならほっとく
ということのできないものだ。
明日に延ばすという、
外の幾何学の真理は
分からなければ
明日に延ばすより仕方がない。
だけど
明日に延ばせんというものが
自分ですわね。」
こういう問題が
アルティメイト・コンサーン
といわれることでしょう
または
第一義諦ともいわれる
ことだと思います
本来は一番先に考えなければ
いけない問題ですが
食うとか生活するとか
経済問題が第一義になって
しまっているようです。
遠いようですが
本来的には一番身近な問題
なのです
ですから、宗教問題ということは
若い時に植え付けなければ
いけないことですが
退職して何もすることがないから
そろそろお寺参りでもして
お参りする風を
してみたくなりますが
それでは遅きに失する
もうボケかかった頭には
宗教問題を考えることは
絶望的かもしれません
しかしながら
志を起こすに早い遅いはない
ともいいますから
菩提の方向を向くには
遅いということはないのかも
知れません
けど、できれば
若い魂に火をつける
ということは
とても大切なことです。
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