本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

SDGs(エス・ディー・ジーズ)

2021-07-18 18:49:44 | 住職の活動日記

SDGsという言葉を

よく耳にします

企業や国レベルの問題と

思いきや

小学生の孫娘が

授業か何かで聞いたのでしょう

盛んに言うのです

 

「食べ物を残しちゃいけないよ

木を切ったらダメだよ

木は人間が出す二酸化炭素を

吸って、酸素を出すんだよ」

 

そういえば最近

ご飯食べる時、一生懸命食べるし

残しもしない

以前はいろいろ気になって

食べるのも中途半端で

残していました

 

こういうSDGsということを

小学生から教える

若い心に火をつけたのでしょう

また、その言葉の

Sutainabⅼe Development Goals

という発音も立派 

最近の子はこういう勉強も

しているのかと驚かされます

 

こういう問題を身近なこととして

実践する行動力には驚きと

やはり、宗教問題もそうですが

若いうちに火をつけておかないと

いけないのではないか

ということを感じます

 

それで、試しに

孫娘に

アルティメイト(ultimate)

という言葉知ってる

といと、

うん、知ってるよ

では

コンサーン(concern)

ということは

知ってる、関係する

ということでしょう

 

宗教とかいうことは

分からない問題です

英語が好きな子には

アルティメイト・コンサーン

ということで

少しでも興味がもてたらと

言ってみたのです

 

色々好きなこと嫌いなことが

あるでしょう

その中で自分にとって

最後にこれだけはと思うこと

こういうことが宗教の問題

ですよ

というようなことを

言ったのですが

若い魂にどう響くか

まったく響かないか

分かりませんが

 

心の片隅にでも

残っていれば

何かの折に出てくるかも

しれません

 

しかし、

子供といっても馬鹿にできません

どういうようなことを

体験させるか

言葉に触れさすか

何かの拍子に心の琴線に触れれば

それが新しい問題意識となり

その子の人生に

左右してくるかもしれません

 

子どもの時にこそ

色々植え付け

何に興味を持つか響くか

与え続けるのも

周りの大人たちの役目のように

思います。

 

 

 

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祇園祭

2021-07-17 21:26:06 | 住職の活動日記

今年も祇園祭の山鉾巡行は 

中止になりました

しかし、山鉾は建てられており

美しい鉾を少しだけ

見ることが出来ました

 

 

ここは函谷鉾カンコボコ

最後のコンチキチンの音が

流れています

案内では15分後には終わる

ということです

 

 

意匠は美しい

動く国宝ともいわれ

国際色豊かな柄が祇園祭の

奥深さを感じます 

この前懸は

「イサクに水を供するリベラ」

というものです

旧約聖書創世記よりの題材

なぜ、キリスト教禁制の時代

こういうものが使われたの

でしょうか

 

 

 

こちらの柄はまた日本的な

意匠です

 

 

こちらは放下鉾ホウカボコ

 

 

釘を一本も使わず縄だけで

結び作りあげています

放下鉾の由来は

町角で芸を披露しながら

仏法を説く放下僧ホウカソウを

祀る鉾ということです

禅宗の言葉で放下ホウゲという

妄念を捨てて芸妓練磨に

専心するという意味になります

結構仏教に関わる鉾も

多いようです

他に、役行者山とか

北山観音山、南観音山とかが

あるようです

 

美しい豪華な飾りに

疫病を集め退散するという

故事から

ちょうど行った時は昼過ぎ

早いところでは

解体にかかっています

 

 

ここは長刀鉾です

飾りは取り払われて骨組みだけ

縄の結び方も美しいものです

 

 

函谷鉾も最後のお囃子が

勤められています

 

 

正面には稚児の人形が

飾ってあります

そのあと祇園祭を後にして

鴨川へ

 

 

今日は鴨川にかかる飛び石を

渡って水に触れながら行き来

 

 

上流を見ると

まあこういう景色も面白い

 

 

下流を見ると豊かに流れています

何かしらこの川を見ると

妙に落ち着くものです。

 

 

 

 

 

 

 

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残念・無念・一念発起

2021-07-15 09:38:05 | 住職の活動日記

孫たちの様子を見ていると

精一杯遊んで

まるで電池が切れたみたいに

寝てしまいます

今のリチウム電池のように

前の乾電池と違って

自然とエネルギーが切れていく

というのではなく

ゼロか100かのように突然

切れてしまいます

その時その時に完成している

というか燃焼しきっている

ような気がします

 

私にとっては(老化?)

かもしれませんが

思いが残って

ああすればよかった

こうすればよかったと

悔いというか、

念が残ってしまいます

また思いもなくなり

無念になることが多いようです

 

念ということも面白く

若い方は「今の心」と読んで

いる方もいらっしゃるようです

 

仏教では大切な意味を持っていて

念という時間も表し

刹那セツナということと

同じ意味合いをもっている

また、

念仏・念法・念僧といって

十念の中の三念を表し

この時の念は観想とか思念という

また、憶念不忘ということもあり

明らかに記憶し忘れない

という意味を持っています

 

それから、

仏道修行の三十七道品の中の

五根ゴコン・五力ゴリキの中に

念根・念力という項目があります

この時も、深く心に想い記憶し

忘れないという

そういうハタラキです

 

そういうハタラキを失くしたのが

失念という言葉です

今では、「忘れました」

というと、それで通るのですが

仏教では

「忘れる」ということを一番の

罪といいます

 

また、「念」には

三念という仏法僧の三宝を念ずる

念仏・念法・念僧の外に

戒律と布施を念ずる

念戒・念施があり

天の世界を念ずるという念天

心の静けさを念ずる念休息ネンクソク

呼吸を整えて妄想を除くという

念安般ネンアンパンがあり

念身という身の無常を観ずる

念死という死を念ずる

という十の念(十念)があります

 

念といっても幅広く

多くの内容を含んでいます

が、よくよく見ると

どれをとっても大切な「念」

ということのようです

 

しかし、

ここで一念発起(イチネンホッキ)

(もう遅いかもしれませんが)

志を起こすに早い遅いはない

といいます

発起というのは

ホツと読むのは仏教読み

発心菩提ホッシンボダイ

というように

仏という目的地に到達する

というより

仏をの方向を目指す

その方向を向くということが

大切なのでしょう。

 

 

 

 

 

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各地からの花だより

2021-07-14 18:29:45 | フラワー

札幌の智誠院さん

フラワーガーデンは今

花々が見ごろを迎えています

 

 

丹精込めて育てておられる

 

 

なんとも美しい

 

 

育てておられる方の心が

伝わってくるようです

 

 

アジサイも見ごろです

こちらではもう終わりがけ

ですが

やはりところ変われば時期も

違うようです

 

 

このガクアジサイは

見た瞬間、線香花火が

花開いたようにも見えてきます

 

こちらからは白馬からの便りです

 

 

まだ残雪が残る白馬の山々

この暑さの中いかにも涼しそう

 

 

白馬の森はトトロが出てきそうな

雰囲気です

 

 

名前は分かりませんが

釣鐘の様な形が面白い

 

 

撫子の様な花ですね

 

 

雨が多かったので

木の下の落ち葉からはキノコが

出てきています

 

 

不思議な形をした真っ赤な花

 

 

この紫陽花は真っ白

白さが違うような気がします

 

 

雪解け水でしょうか

とても冷たそうな澄み切った

水のようです

 

 

その水を渡ると奥には

自然歩道があり

木漏れ日を受けながらの散策は

木々のエネルギーを頂けるような

気がしてきます

 

そして、

我が家のまわりでは

 

 

いつもの散歩道に

オヤッと目を引く花が見えます

 

 

昨年は見かけなかった気がします

いつの間にかこんな美しい花を

咲かせています

今の時期は野の草たちが勢いを

ましていますがその中に

こういう花を見かけるのは

楽しい気分になるものです。

 

 

 

 

 

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有学・無学

2021-07-12 20:07:14 | 十地経

学があると書いて、有学

学識があるという

有識者会議というのもあります

反対に、無学というと

学がないということで

無学な者でと、謙遜して使ったり

また、

浅学非才という言葉もあります

 

ところが

仏教でこの言葉を使うと

意味は全く違った意味になります

無学とは、

もはや学ぶべきものがない

ということで仏さまのことを

表します

有学というと

まだまだ学ぶきことがある

ということで、声聞・縁覚・菩薩

のことを言っています

 

講義の中では

「学問というのは何かというと

面倒なものという意味じゃ

ないんだ

誰でもがそうなりうるものを

学問という

秘密がないことなんだ

公開されたもの

学問は偉い人間がやることじゃ

ないんですわ

平凡だから、人間というものが

偉くないから学問が要るんです

偉い人に学問なんか要りゃせん

 

我々が学問を求めるということは

我々がですね

優れておらんということから

出発する

学問というのは、

そういう、非常に謙虚な道なんだ

学問で威張るというのは

学問をやらん人間がいうことです

 

たとえば

高等学校の生徒でも

困るのではないかね

わしゃ頭が駄目だからやらん

という

駄目なら尚やらなきゃならん

という意味じゃないか

やらんというのは駄目でない

ということですね

 

だからして、やっぱり

誰でもできるというような道が

学問というものでしょう

で、学問を卒業したのを

仏教では仏とか阿羅漢とか

いいます

あれは、無学というんです

学が無い

学が無いというと

おかしいんですけど

学する必要がないんです

 

で、学者というのは

どうかというと

声聞、縁覚、菩薩といって

因位インイ、

因位です

因位は皆、有学なんです

果位カイ、果の位

卒業した位は無学なんです

これが本当の学問の意味

じゃないか

 

学者というのものは

これはですね、

結果に到達したと

いうのではないのであって

因位でいま、一生懸命やっとる

のを学者という

学問を卒業した人は

無学なんです

 

我々は無学になるために学する」

 

というように出てきます

何だか自分なりに安心したのは

いまだに、

小学生みたいにノートと鉛筆で

書き写したりと

そんなことをやっている

自分なりの考え方が

出来たわけでもなく

まだまだ未熟な勉強方法

 

この一文を読んで

有学なんだと無学は仏さま

死ぬまで有学という

学び続けるのが本当のあり方

そういうことが少し

分かったような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

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止観の病的現象

2021-07-09 20:20:16 | 十地経

「止観の病的現象」

この言葉も面白い表現です

ここのところは特に念入りに

話されていました

 

講義では

「第七地は、

双行という字があるでしょう。

たとえてみたら、

止というのは静かなことですし、

観というのは

はたらくことでしょう。

止は静止的です。

あらゆる考えを止めて見よと

ものとなってものを見ると、

ものとなるんだから

非常に静止的です。

 

観は活動的でしょう。

だからこれはなかなか

一致せんのです。

止が強いけども観が強くなると

観は強いけど止が弱いと。

 

止観の病的現象、

そういう煩悩が惛沈コンジン

といって、

それから掉挙ジョウコ。

 

惛沈、なにするのも面倒くさい

という気持ち。

気力が起こってこん。

沈滞やね。

それはつまり止があるけど

観ができない。

それが沈滞だ。

 

掉挙、これはじっとしとれん。

じっとして本がよんどれん。

何でも浮き立つ。

スキーに行くとか、

弁当は忙しいから急行列車の

中ばかりで食っとる。

部屋に落ち着いて

弁当食ったことがないというんだ

えらい騒がしいじゃないか

というと、

そうじゃないんというんだ。

急行列車で弁当食うと、

それがうまいという。

だから忙しければ忙しいほど

調子がいいという。

 

こういうのは観はあるけど

止がない。

ばたばたしとる。

これは一つの煩悩です。

 

煩悩ですけど、

貪・瞋・痴とか腹が立つとか

物が欲しいとかという煩悩と違う

もっと上等の煩悩だ。

つまり精神生活に関する煩悩だ。」

 

掉挙と惛沈

うきうきするのと

暗く沈んでしまう

こういう煩悩もあります

しかし、

人間の気持ちをよく押さえている

ようです

私たちは

ちょっといいことがあると

心がうきうきして

落ち着かない

反対に、

何をやってもダメ、と

思うようにいかない時

そんな時は気持ちは沈んでしまい

暗く落ち込んでしまいます

 

止観という

ものごとを静かに集中力をもって

考えるということは

うきうきしても出来ないし

暗く沈んでも出来ない

 

講義ではよく話され

言葉自体も面白いので

何かしら心に残っている言葉です

 

「掉挙(じょうこ)

 惛沈(こんじん)」

 

この二つの煩悩が止観を妨げる

ということで、

止観の病的現象

といわれたのでしょう。

その前のところで

フッサールの現象学の話を

されていたので

こういう病的現象という言葉が

生まれてきたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

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実存ということは情熱的に考えることだ

2021-07-08 20:11:57 | 十地経

安田先生の言葉は

こういうように新鮮で

感動的な言葉を生み出して

おられます

 

「実存ということは

 情熱的に考えることだ」

 

というように、

この前後の文章は

「実存ということは何も

考えんことじゃない。

根源的に考えることだ。

欲求ということは情熱だ。

止観といったら考えること、

しかしそれは情熱的に思考する

ということです。

興味半分にやってみるとか、

やった方が得だからやると

いうんじゃない。

 

それがなければ

死ぬるということもできない。

生きることができんのは

当たり前のことだ。

死ぬることもできんという、

そいう真理。

 

そういうのが自己に関する

真理でしょう。

それはもう

情熱を持たざるをえない真理

でしょう。

情熱的な一つの欲求やね。

渇仰的な欲求なんだ。

要求ということもある。

これは静かだ。

宗教的要求という言葉もある。

 

けど要求というものよりも

もっと情熱的な概念でしょうね。

欲求といえば。

要という字は必要とする

という意味でしょう。

必要なものとして求めると、

こういう意味です。」

 

安田先生も静かに見える方ですが

内に秘めた情熱というか

以前、三浦先生より

「この子も熊本ですよ」と

紹介された時

「熊本らしくない顔してるね」

といわれました。

その後の講義で

高群逸枝さんの話が出て

熊本の女性で、女性解放を主張

その女性がとても情熱家で

そういう女性を熊本の人という

印象を持たれたのでしょう。

 

そういう情熱的な人が、

三浦先生も情熱的なな方で

そういうところが引かれたのかも

しれません。

 

「食えんようになる時が

   死ぬ時や」

と、仰っておられました。

一度も職業に就かれず(たぶん)

一度だけ大谷大学の講義をされ

その時は緑のチェック柄の

ダブルのスーツ姿で

それが職業に就かれた最初で最後

だったのかもしれません

あとは、講義に呼ばれ

そこで講義をされ、

その頂かれたものが糧だった

のではないでしょうか。

 

そのように先生の生き様自体が

生死を懸けたものです

ただ座って聞法する

というのではなく

命懸けの聞法

食えんようになるときは

死ぬ時や

ということも事実の言葉です

 

そこには、

先生もよく使われる

アルティメイトコンサーン

(究極的関心)

という、求めずにおれないという

そういう欲求があったのです

 

表面的には静かに見えても

内には燃えるような求道心を

持っておられたのです

 

普通には私たちは損得勘定で

生きているので、

なかなか、究極的といわれても

金銭的なことが先になって

しまいます。

 

しかしながら、

出来なくてもこういう新鮮な

情熱的な言葉には

感動するものがあります。

こういう言葉に触れていく

だけでも

こちらの心が震えるものです。

 

 

 

 

 

 

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悲しい知らせ

2021-07-07 20:40:14 | 住職の活動日記

夕方、息子より電話があり

R・Sさんが亡くなったと

 

驚きとともに悲しみが

込み上げてきました

なぜだろう

 

ニューヨークで活躍のご様子

だったのに

毎年暮れにはクリスマスカードを

頂き、それも毎年工夫を凝らした

もので頂くのが楽しみでした

 

このブログを書くということを

教えて頂いた方でもあります

振り返ってみると

2006年6月1日が出発です

それから5532日目です

 

本蔵院のホームページを

作って頂いたのがご縁の始まりです

その時の

ホームページを作るということは

その事業の内容を知り

さらには目指す方向は

どういうものか

そういうことを丁寧に

聞いていかれたのです

誰よりもお寺の内容とあり方

方向性を知ったうえで

作っていかれる

 

その時に始めて知ったのですが

ホームページを作るということは

そこのあり方、過去という歴史

現在やっていることの内容

そして未来に向かっての方向性

そういうことがはっきり

理解したうえで作り込んでいかれる

 

そこには、デザイン性

その方のセンスの良さが

光るわけです

いつもお洒落な服装で

長い爪にマニュキュアをして

その長い爪で

上手にキーを打たれる

そういう服のセンス

靴の好みの良さ

若い女性ながら

私にはとても生き生きと

眩しくも映ったのです

 

日本を飛び出し

ニューヨークで自分の可能性を

試してみたいと

毎年頂くカードには

その様子が伝わってきました

 

そして、向こうの男性と結婚

一度は夫を連れて帰国

こちらでも結婚式を挙げ

順風満帆のようでした

 

しかし、

このコロナウィルス

さらにはアジア人に対する

ヘイト問題もあり

帰国したいと

願っておられましたが

こういう時期なかなか手続きが

スムースにいかず

悩んでおられたようです

 

今更ながら

悔やまれて仕方ないのですが

ラインなりメールを送っていれば

一人で悩まずに

何らかのはけ口にでも

なったのではないかと

 

本当に辛く苦しい問題を背負い

一人で悩み

どこにも持っていけず

自分で逃げ場のないことに

なってしまったのではないかと

勝手に想像していたのです

 

知らせを受けて

さっそく家内とお参りを

したのですが

何でもう少し、何か手を打つ

ことがなかったのかと

悔やまれてなりません

 

彼女のやってこられたことを

もう少し詳しく知り

彼女の事業を偲びたいと思います

 

 

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モンステラの涼しい風

2021-07-06 20:27:02 | フラワー

雨も降らないと作物が育たない

降りすぎると人命を奪うような

災害がおきる

なかなか人間の都合には

合わせてくれない

 

龍神さま何とか宜しく

お願いします

 

梅雨の真っ最中で

ジメジメとした日が続きます

洗濯ものもすっきり乾かない

体の調子も狂ってきそう

 

そんな中

玄関に何とも涼し気な

モンステラの葉が活けられました

 

 

この葉はとても好きなものです

以前、お花をやっていた時

活けやすいというか

下手な活け方を

カバーしてくれていました

 

 

薔薇と白いアンスリュームも

取り合いがいいですね

 

 

ガーベラもスッと伸びて

自分を表現していたのですが

持ちが悪く

すぐお辞儀をしてしまいました

 

 

ここのところ

お花が入るのも不定期で

活けられると

それぞれの個性が響き合って

一つの大きな作品となる

ようです

 

 

お花を生ける、とも

お花を活ける、とも

どちらも使います

この二つのいけるを合わせると

「生活」という字になります

 

「生」は土の中から生え出てきた

芽を表します

「活」は水がごうごうと

音を立てて流れることで

勢いのよいことを表します

 

どちらの字も

いのちの芽生えというか

いのちが生まれ勢い良く育つ

そういうことを表している

ようです

 

梅雨空の鬱陶しい模様に

負けないように

今日の生け花のように元気で

いたいものです。

 

 

色々の姿を見てください。

 

 

 

 

 

 

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ものになって、ものを見よ

2021-07-05 20:24:58 | 十地経

止観ということが続きます

 

「考えることを止めて

その考えとるというその事実を

見よと。

だから見るということが

非常に大事なんです。

止観が成就してくるというと

観という字は非常に広く、

最後は智という字になる。

智慧もて観ずるという。

定ジョウを止シという。

それは、色々な考えが

止められるというのが三昧。

 

止観は仏教の特別なことでは

ないんであって、

自然科学の観察から、

宗教心の反省まで含むような

止観。

考えを止めるということは

何かというと。

考えるのは向こうにおいて

考えることでしょう。」

 

ちょうどこのころ

観察ということで

実験観察ということを

例えとして話しておられました

好き嫌いをこえて

ものごとをよく見る

好きなものはよく見るけど

嫌いなものは見ない

というのではなく

自分を外においてよく見る。

そのことを

三浦先生は高校生に

勉学でも好きな先生の言うことは

よく聞くけど

嫌いな先生の話は聞かない

というのではなく

好き嫌いをこえて

先生の話は自分を無にして

よく聞いてくださいと

生徒さんに話しておられました。

 

講義の話は続けて

「向こうにおいて考えるのを

止めて、

むしろ、ものそのものになる。

解消してしまうんだ、自分をね。

 

ものになって見よと、

ものになってものを見よと、

それが止観だ。

そうすると、

ものが自分自身を現わしてくる

だろうと。

それを見ケンという。

見は現と同じ意味だ。

観はみる、見はあらわれる。

 

本当に見るというのは、

こっちが向こうにおいて

何かを見とるのじゃないので

あって、むしろ

見られるものが自分自身に現れる

それが

本当に見たということだ。

こっちから見とる限り

それは考えたんだ。

本当に真理を見るということは

真理がむしろ

我々自身に名告ノってくることだ。

それが本当に見たことだ。」

 

よく仏師の方が

仏像を彫ったのではない

木の中にいらした仏さまを

取り出しただけだ。

ということを言われます。

そのことも

自分を無にして木を見ると

そこに仏さまがいらっしゃる

それを彫りだすということと

通じるものがあるようです。

 

また、別のところでは

「人間が現実と考えとるものは

かえって現実ではない。

現実というものの根はもっと深い。

むしろ

我々が現実と考えとるものは

現実というものを解釈し直しとる

かえって夢でしょう。

 

人間は、

仏の方の世界は夢の世界で、

苦しんどる世界は現実だと

言いますが、

逆じゃないかと思う。

人間の現実だと思っとる方が

かえって夢じゃないか。

 

如というのは

本当の現実なんです。

如来の如というのは

本当の意味の現実。」

 

というように出てきます。

ここのところも

おもしろい問題です

普通は現実は苦しく

仏の世界は夢のような安楽な

ものと考えていますが

そうではなく

私たちは世界を見る時

自分の都合に合わせて

自分勝手な世界を見ている

ということです。

 

身近なところでは

友達と賑やかな道を歩いて

いたとします

普通には平等に見えている

ように思うのですが

腹が減った人には

レストランや食堂が目に入り

お酒でも飲みたい人は

酒屋さんとか飲み屋さんが

気になるはずです

腹も満たされ気持ちも落ち着いて

お花の美しさが目に入り

花屋さんとかが気なるはずです

 

ですから同じ道を歩いても

見ている世界は全く違ったものを

見ているということです。

事実を見たといっても

それは自分が解釈して作り上げた

世界ということです。

 

こういう私の解釈が入っては

いけないと思うのですが

先生の言葉を噛み締めていただくと

今までとは違った世界が

見えてくるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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