本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

宗教心と世間心

2024-06-14 16:38:39 | 十地経

煩悩ということも

修行をやっていくうちに

それに悩まされ、

かき乱され、惑わされ、

汚されていくということで

たくさんの名前があります

修行の中から

それを対治していった

中から生まれたのでしょう

 

随眠ズイミン、眠らせる

漏ロ、もれだすという

自分では隠そうとしている

のですが漏れ出てくる

それで、煩悩があることを

有漏ウロ、無いことを無漏

といいます。

 

一休さんの歌に

 有漏路より無漏路に至る

  ひとやすみ(一休)

   雨降らば降れ

   風吹けば吹け

というのがありますが、

迷いの煩悩の世界から

その迷いを超えたさとりへ

行くという

その途中には雨も嵐もある

だろう、が

今はその一休みという

ところから名前がついた

のではないかと思います

 

その有漏、無漏という

言葉はよく出てきます。

 

「この染というのは

何であるかというと、

別の仏教の言葉でいえば…

清浄というのは無漏という

こと。無漏であると。

それから染汚(ぜんま)

というのは有漏といって、

漏というのは煩悩のこと

ですが、

つまり何というか、

宗教心と世間心ですね。

 

関心ということです。

人間関心です。

人間関心の中には、

人間というものはただ

何でもかんでも

世間的なものを要求しとる

というものじゃないと

思うのです。

 

そういうように考えるのは

人間を馬鹿にした考え

じゃないかと思うんです。

何か純粋なものを求めてる

もんじゃないかと

思うんです、

人間というものは。

 

そりゃ何も

金と富と、そういうものが

あれば満足だというような

こと言ってる人は、

その人自身嘘ついている

んじゃないかと思うんです

 

それはその人の本当のこと

じゃない。

その人の理知がですね、

そういうことをいわさせ

とるんだと思うんです。

「わしが」なんてこと

いっとるだけですね、

本当のわしはないと思うん

です。

 

そういうように

純粋な要求もあるんだと

思うんですね。

しかしそうかといって、

そうでない正反対の、

この世的なものに惹かれる

ような関心もあるわけです

 

そういうものが

相交わっとるんですね。

そういうのが現実の人間と

いうものじゃないかと

思います。

 

そういうものがあればこそ

このような会が開けとるん

です。

これが、

純粋な人間だったら

こんな下手な講義なんか

聞きに来ません。

それからまた、

まったく浄なんか全然ない

ものなら

こんな馬鹿な所に誰も

来ませんです。

 

何か、相交わっているから

来てですね、

何かちょっと

一つはっきりしたいと、

こういうものが

みんなあるわけです。

あなた方にもあるし

僕にもあるわけです。」

 

前に「染浄世界」という

ことが出てきました。

染と浄が入り交わっている

世界、それと「純浄世界」

もっぱら浄だけの世界、

私たちも

淨だけでも生きれんし

かといって

染という煩悩だけの世界

でも生きれない。

染と浄とが相交わった

世界に生きているのが

現実ということのようです

 

 

 

 

 

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