本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「ゆゆしき学生たち、おおく座せられる」

2018-09-27 15:17:08 | 十地経

学生ということも

仏教では学生(がくしょう)と

読みます。

「ゆゆしき学生たち

  おおく座せられる」

なにかしらとてもいい言葉です。

比叡山を開かれた伝教大師最澄も

比叡山を開くにあたり

「山家学生式」

(さんげがくしょうしき)

というを著わしておられます。

「国宝とは何物ぞ

 宝とは道心なり。

 道心ある人を名づけて国宝と為す

 経寸十枚此れ国宝に非ず

 一隅を照らす是即ち国宝なり」

という有名な言葉があります。

 

仏教では学生(がくしょう)

ということが本来のあり方でしょう

「十地経講義」では

 

「人間が本当に何か問題をもった

 という場合に、それが学生になる

 学校だけではない。

 人間の構造なんだ、 

 学生というのは。

 人間が最も人間である場合が

 学生なんです。

 仏教ではそういう学生を声聞・

 縁覚・菩薩とこういっている

 わけです。」

 

「学」という字も

古くは「學」と書きました。

上の臼というのは両手を表し

子どもに世の中のしきたりの

てぶりをならわせる。

ということが字の意味です。

 

私たちも、もうこれでいい

ということはなく、

お経には「上上に」というように

一歩一歩歩み続けるということです

「学生」(がくしょう)

ということも、

学びながら生きる、とも

生きることを学ぶ、とも

いろいろな読み方ができる

のではないでしょうか。

 

そういうことからすると、

人間とは不思議なもので、

講義の中では次のように

述べておられます。

 

「人間は、自己にかなうものだけ

 要求するのではなしに、

 自己を否定するものまで

 人間は要求する。 

 自己を否定するものなら

 逃げそうなもんだけれども

 逃げたい気持ちで近づく。

 そうでしょう。

 あなた方は聞法される場合には

 こんな会が好きだというような

 人はおりはしない。」

 

と、ありますが、

その当時はこの会があるというので

準備やら掃除ということがあり

また、分からない話を

聞くということも重荷で

何か逃げたい気持ちもあったのです

しかし、

聞かなかったら何か失くしたような

いやいやながら近づくという

そういう不思議な会でした。

けど、心の深いところでは

やはり求めていることが

あったのでしょう。

分からないなりに、

心に残っていく言葉に出会い

いまだに続いている

ということです。

 

おもしろいもので

仏教には「無学」という

位があります。

一般には無学というと

学問や知識のないことで

未熟者のようにいいますが

仏教では、もはや

学ぶべきものは何もない

という阿羅漢の位のことになり

反対に有学というと

まだこれから学ばなければ

ならないことがたくさんある

という修行半ばの人を

いうのです。

 

学ぶということも色々あるのですが

「学生」という立場

人間が何かのことを目指す

となれば、

修行に限らず仕事でもスポーツでも

同じことが言えるように思うのです

そのことがなければ

一歩一歩という修行は

成り立たないように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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