本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

茶碗も行者(生活者)でなければ!?

2016-12-23 21:13:19 | 住職の活動日記

行者さん、といいますが

インドの言葉では「アジャリ」と

アーチャリアというのがもとの言葉

アジャリが阿闍梨と当てられ、

天台宗の千日回峰行をする方を

「阿闍梨さま」といいます。

その阿闍梨さまの被っている菅笠を

かたどったお菓子が

「阿闍梨餅」といいます。

 

そういうこともありますが、

「阿闍梨」ということは

ほんらいは修行するお坊さんの

手本になった方を

アジャリさんと呼んだのでしょう。

それが、

「阿闍梨」という一つの位として

表されるようになりました。

 

天皇陛下のお衣をご祈祷する

御七日御修法の導師を

「大阿闍梨」と呼ぶように、

略して「大阿さん」(だいあ)と

呼んだりもしています。

 

しかし、アジャリというのは

もっと身近な言葉であったように

思います。

行者と、何も特別な修行をする

というのではなく、

毎日修行を実践するという

日々行じている人

ということなのでしょう。

今の言葉では「生活者」という

ことになるのではないかと、

 

一面には、

女性は特に日々の生活を

食事を作り、掃除洗濯と

確かな歩みをされている

そのことは行者さんと

呼んでもいいのかもしれません。

ただそのことで

自分の自我というものがどれだけ

削られていくか、

そのことによって執着を離れる

ことができるかということです。

 

(ただ毎日の生活となると

それどころではありませんが、

おさんどんをしていたころは

ただ日々の献立を考え

三度三度のご飯作りに

追われるということになりますが)

 

ただ、阿闍梨というのは

一つの止まった

位というものではなく、

毎日行(ぎょうじ)ている

ということです。

 

というのは、

お茶碗ということも

本来は日々使われるもので

飾っておくものではない

と思うのです。

お茶碗も行者さんで

実践するもの

使い勝手のいいもの

そういうのが茶碗の命でしょう。

飾られた「阿闍梨」さんになって

しまっては本来のハタラキを

なくしてしまうようです。

 

お茶碗見て思うのです

飾られた「阿闍梨さん」に

なってしまったのか、

それとも歴史にもまれ

日々実践として使われてきた

生活者としての行者さんの

道を歩んできたかで

そのお茶碗の重みが違うようです。

 

私たちも

気を付けなければいけないのは

ただ立派な衣を着た「阿闍梨さま」に

ならないように、

お釈迦さまのような生活者

行者さんにならなければ、

しかし、

ただなんでも行じれば

いいというのではなく

そこには法に照らしてという

教えとを聞くという

根本がなければいけませんが、

 

古来より

「聞・思・修」(もんししゅう)

ということがあって

よく教えを聞き、

よく考えて

実践する

このことを行じていくのが

行者さんでしょう。

そしてお釈迦さまはその行の

根本として三十七道品という

37の方法を説かれています。

 

忙しい、忙しい、といいつつ

なにかしら、

とても大事なことを見失いがちに

なっているようです。

 

自責に念に駆られて!!

 

 

 

 

 

 

 

 

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