本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

本を読むのが思索なんです

2022-02-21 20:02:26 | 十地経

ここのところ難しいところが

続きます

哲学用語を用いながら

ただ一面的に仏教を論じる

のではなく

色々な面から見直して

いかれるのです。

今まで何でもないように

思っていた言葉

辞書を引きなおしてみると

哲学用語だったりと

その言葉を調べなおして

いるとなかなか進みません。

例えば、

物質、感覚、史観、先験的、

主観などなど、

分かっていたつもりが

見直すと

深い意味を持っていたりと

ここのところそういう

遅々とした日々が続いて

いるのです。

 

「こういうような

古典的な研究ということに

なると、

読むということしかあらへん

のではないかと思うですね。

回数を重ねて読む

ということしか

ないじゃないかと。

問題は

その読むに耐えるような

文章を見つける

ということです。

何遍読んでも味が出てくる

ようなもの、

そういうものを読む。

 

つまり、

覚えようと思って

記憶するんじゃない。

覚わるんです。

努力して記憶するんじゃない

憶念執持というのは。

憶念執持とは覚えている

という意味じゃない。

忘れられんという意味です。

無理して覚えているという

試験勉強と違うんです。

 

経典というものは、

それによって

自分が形成されるんです。

また形成された眼で

古典が読めていくんです。

新しく読むという。

新しく読む

というということは

何かというと、

新しく読めるように

自分が成長したことや。

だから古典と、本と自分との

間に対話が行われるんです。

そういうように生きた対話が

そんなことが

僕は学問というものの

基礎になるんじゃないかね。

 

僕の学問というものは

そういうもんです。

これは講読、今度は論文と、

そういうことは僕は

ないんです。

本を読むのが思索なんです。

本読んだ後からまた思索する

ということはないんです。

本を読むことが思索すること

大体人と話するのも思索です

 

つまり、

僕らには職業でない学問

というものがある。

本来はそういうもんだと、

学問というのは、ね。

職業の学問になったのは、

これはカント以後です。

それまでは

哲学者というものは

別に大学教授ということは

ありゃせん。

ルター、ルーテル、

ドクター・ルーテルと

いうのは、

あれは、

昔の大学は修道院だった。

西洋ではね。

修道院が大学だった。

だからルターは修道僧です

からそういうよなドクター

という名もあるんでしょう

けれども、

大体一般には

スピノザにしても、

レンズ磨いて生活しとった。

眼鏡磨きで。

それから粉ひいていた人も

おるしさ、ええ。

何も別に哲学する人が

大学の教授になる

ということはなかった。

哲学する人が大学の教授に

なりだしたのはカントから、

つまり職業になった。

哲学というものが一つの

職業になった。」

 

というように出てきます

悪戦苦闘の日々ですが

分からないなりに

取り組むことが

大事ではないかと

講義の文章に浸っています。

 

 

 

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