本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

記憶と阿頼耶識(アラヤシキ)

2022-02-20 20:26:04 | 十地経

この、記憶というのは

何でもないような話ですけど

何というか、もっと単純には

記憶というのは

心理学の概念ですけど、

それは過去が生きとるという

意味ですね。

それは矛盾概念でしょ。

過去はなくなったものを

過去という。

 

なくなったものが

生きてあるというのは、

それは現在です。

つまり、

過去は過去じゃない、

過去が現在として生きておる

過去も現在だというと、

非常に大事な意識現象という

ものを押さえている現象

なんです。

だからして、

記憶というものは

アウグスチヌスでも注意

している。

『記憶と物質』という本が

ある、ベルグソンに。

 

それから

唯識でいうと阿頼耶識という

ようなね。阿頼耶。

アーラヤ・ビジュニャーナ。

これはなんかというと、

阿頼耶識を論証するのに

記憶をもって論証する。

ええ。

過去に得た経験が

いつでも現在に蓄積されて

いる。

過ぎ去ったものを

いつでもはらんでいる。

過ぎ去ったものを

背負うとる。

同時にまた

未来をはらんでいる。

それが阿頼耶という。

 

記憶というものが

いかに重大なですね、

記憶というのは一面

心理学の概念だけど、

もうこうなるとはや

存在論的な概念に

なってしまう。

哲学的概念になってしまう。

 

先日から忘れるということ

記憶ということが

私の中で問題になっていて

気にかかっていたことが

やはり講義でも出て来たので

なるほどと思いつつ

読んでいたのです。

 

過去は過ぎ去ったものとして

捨て去ることもできない

現在今あるのは

過去の蓄積が今の自分を

作っているのです。

いいことも、悪いことも

すべてが

自分の肥やしとなっている

ということです。

思い出すと背筋が冷っとする

ことばかりなのですが

 

阿頼耶識ということも

含蔵識とも訳されます

蔵のようにすべての行いを

蓄えているという意識です。

いいことだけ蓄えてくれたら

いいのですが

嘘ついたり誤魔化したり

したことも

ちゃんと蓄えている

そこが怖いことで

それが、

蓄えただけで終われば

いいのですが

その蓄えたことが

利息のように今の自分の

行いに出てくる

ということなのです。

 

昔から「嘘八百」という

言葉がありますが

一つ嘘をつくと

それを隠すために次々

嘘をついて

ついには八百にもなってくる

ということなのでしょう。

常に師匠からは

「嘘だけはついちゃいかん」

ということを諌められました

人は誤魔化せても

自分自身は誤魔化せない

ということです。

 

記憶と阿頼耶識

なかなか面白い問題です。

 

 

 

 

コメント
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