五条烏丸を少し上がった所に
烏丸通に面して
ビルの隙間に「俊成社」が
あります
隣のビルは工事中なのですが
ひっそりと佇んでいます
案内の表札を読むと
藤原定家の父、藤原俊成
の館があったところと
出ています
百人一首では
皇太后宮大夫俊成
コウタイゴウグウノダイブトシナリ
という名前で出てきます
世の中よ 道こそなけれ
思ひ入る 山の奥にも
鹿ぞ鳴くなる
という歌です
俊成27歳の時の歌
保延6年(1140)です
ちょうどこの時
同世代の西行が出家して
います、西行23歳
俊成も真剣に出家を
考えていたようです
「世の中は道こそなけれ」
という、
どこへも逃げ道はない
と悩んでいる心を吐露して
いるようにも思えます
俊成は長生きでこの地で
91才の天寿を全うしています
このお社は
町民が民家の裏に祀ったと
俊成の本宅は
五条大橋(現在の松原通)の
烏丸小路から室町小路に及び
そのために五条三位と
呼ばれていました
寿永2年(1183)
「千載和歌集」の撰集せよ
という
後白河院の院宣が届きます
あたかも
木曽義仲が延暦寺に入った
という報に
平家の公達たちの都落ちが
始まったという時です
その近く
松原通を少し西へ入った所
駐車場の向こうにあるお社
そこが
新玉津島神社
ニイタマツジマジンジャ
由来によると
文治2年(1168)
後鳥羽天皇の勅命により
俊成が
和歌山県の和歌浦の
玉津島神社に祀られている
歌道の神
衣通郎姫ソトオシノイラツメ を
勧請したということです
俊成はこの地を和歌所として
「千載和歌集」を編纂します
ドラマがあって
落ち延びていく平忠度タダノリ
危険を顧みず
この屋敷に引き返し
一首なりとも選んでほしい、
と自分の秀歌の巻物を献じた
俊成はその中から
さざなみや 志賀の都は
あれにしを 昔ながらの
山さくらかな
の一首を「千載和歌集」に
載せたといいます
鳥居をくぐり入ると
左手に拝殿があり
その先が本殿になっています
丁度かぎ型に敷地はあります
この神社もその後
江戸時代には
「源氏物語湖月抄」などの
こてん注釈の第一人者で
松尾芭蕉の師である
北村季吟が7年間宮司を
勤めておられます
ということから
今でも短歌や俳句をする方の
聖地になっているようです
今でこそ小さいながらも
大変な歴史を持っています
和歌をやっていた
祖父がこのことを聞いたら
大変喜んだと思います