さわり、障りと書きます
大きく分けて二つの障りが
あります
煩悩障と所知障(ショチショウ)です
煩悩障というと
何となく分かるような
気がするのですが、
所知障という智慧に対する
障りもあるのです
障ということは
辞書には
涅槃のさとりをうることを
障害する煩悩のこと
とあります
この障りということも
何気なく暮らしている分には
何の障りもないのです
ところが一旦目的を持つと
今まで何でもないことが
障りとして見えてきます
講義の中で
経文では
「楽無作行対治」
という一文で出てきます
「彼の楽を対治する」
それは菩薩の精神生活に
おいては一つの過失なんだと
はたらきを失ってしまう。
愛着によってはたらきを失う
縛られてしまうんだ。
それが精神生活の障り
ですから、
彼の楽を対治する。
楽無作行の楽という障りを
対治するんだと。
精神生活には障りがあるから
歩む。
障が大事なんです。
障がなければ
歩むということはない。
初歓喜地に住したとき
すでに十地を完全してしまう
はずだけど、
真理を見たというのが
初歓喜地。
真理に差別はない。
真理が即一切です。
なぜそこに十というものを
立てるかといえば、
それは障による。
障があるところに
真理を見た体験が、
智慧が歩む。
得たものが
得たものになっていく。
真理を得てみんと妨げが
分からん。
真理を得たものが
初めて真理を妨げるものを
知る。
それによって歩む。
障が真理を立体化する。
歩みが出てくる。
道程というものが出てくる。
難しいようにも思える
のですが
実際、自分がやってみると
やった人にはわかる話だと
思うのです。
目的をもってそれに向かって
歩みだした時、
怠けたいと思う心も障だし
食欲にしろいろいろの欲望が
障りとして見えてくる
それから
これは所知障ではないかと
勝手に思うのですが
お経の最初の文句は
「如是我聞」ニョゼガモン
真言宗のお経では
ジョウシガブンと読みます
漢音で発音するのです
意味は
お釈迦さまの教えを
私はこのように聞きました
ということですが、
厳密には
私は、という主格ではなく
私においてはというような
インストルメンタルに
なります
つまり、
私が、といいだすと
聞いたことに固執してしまう
いや、自分はこう聞いたと
聞いたことに我執というか
執着が始まります
そこで、この我というのは
阿難尊者のことですが
お釈迦さまのお側にいて
常にお釈迦さまの教えを聞き
最後も看取った方です
その阿難尊者でも
我が、という自分の固執を
離れて
謙虚に、自分においてはと
一歩下がった立場で
このように聞きましたと
聞いたことを
述べておられるのです。
それで、
お経の最後の文は
「善哉、善哉」と
よきかなよきかな、と
皆が賛同して
お経が成り立っています。
ここに、法執という
所知障の障りを対治して
おられるのだと思います。
何ごとにおいても
やってみれば
必ず障がでてきます
障りが出てこないなら
歩んでないともいえる
と思います。
歩むということは
障りが見つかったとも
いえると思います。
ですから
「障」ということは
とても大事なことなのです。