賑やかな浅草の西の端六区の縁を走る国際通りの「公園六区入口」信号を渡ると、下町浅草の風情を残す「かっぱ橋本通り商店街」に足を踏み入れる。商店街に入ってすぐ右手には明治36年創業のどじょう料理の老舗「どぜう飯田屋」さんの趣のある店構えが見えてきます。店の入口に白地に墨文字で大きく「どぜう」と書かれた暖簾が粋な雰囲気を漂わせて掛けられています。
このかっぱ橋本通りは浅草の国際通りから始まり、上野駅入谷近くの昭和通りまでの1.2キロにわたる道で、途中、調理器具や食器などを扱うたくさんの問屋さんが軒を連ねるかっぱ橋商店街を横切っています。
こんな「かっぱ橋本通り」は明治、大正の時代は浅草と上野を結ぶ幹線道路として大いに賑わっていたと言います。現在でもこの地域に住む方々の日常生活に欠かせない下町の風情を残した商店街として賑わいを見せています。
合羽橋の交差点を渡ると地名が「松が谷」と変わります。このあたりの「かっぱ橋本通り」の両側は商店街というよりはビルが立ち並ぶ住宅街へと姿を変えています。そして、特筆すべきはこの界隈には「石をなげれば寺にあたる」と言われるほど「寺院」が次から次へと現われる寺町を構成しているのです。門前の構えや本堂の姿を見るにつけ、なにやら由緒ありそうな寺院ばかりです。
そんな寺院が多数点在する中を歩きながら松が谷2丁目の交差点にさしかかります。この信号を左折し3ブロックほど行った角に、今日のお題の源空寺が静かな佇まいを見せているのです。
源空寺のご本堂
実はこの源空寺を訪れたのは、たまたまこの松が谷を散策している途中に偶然門前を通りかかった時に、その山門脇に伊能忠敬墓と幡随院長兵衛墓の石柱を見つけたからなのです。
源空寺門前の石柱
伊能忠敬については以前、門前仲町の富岡八幡の中で取り上げていますが、江戸末期に詳細な日本地図を編纂したことで知られているお方なのですが、「このお寺にお墓があったのか」と思いでお参りをしてきました。
そして驚いたことに歌舞伎の荒事で演じられるあの「幡随院長兵衛」の墓もこの源空寺にあるという。
さっそくまずは伊能忠敬のお墓に詣でることに!お墓は本堂のある敷地の脇の道を挟んで墓地が広がっています。特に墓地内の見取り図は掲示されていないのですが、それらしき墓はすぐにわかります。墓地内の細い道を進むと、なんと先に現われたのが「幡随院長兵衛」の墓!それもご夫妻の墓石が仲良く並んで建っています。
そして「幡随院長兵衛」の墓から数えて右へ2つ目に「伊能忠敬」の墓が建っているのです。
伊能忠敬の墓
幡随院長兵衛夫妻の墓
ここで幡随院長兵衛についてほんの少し説明いたしましょう。
江戸初期の1622年ころの生まれだそうです。実在の人物で本名を塚本伊太郎。肥前唐津藩(佐賀県)の武士の子だということです。この伊太郎が江戸へ出て花川戸(はなかわど:現在の浅草)に住み、幡随院長兵衛と名乗り「口入れ稼業」を営むかたわら、3千人の子分を抱える「町奴(まちやっこ)」の頭領として君臨していました。しかし対立する「旗本奴(はたもとやっこ)」の首領である水野十郎左衛門に殺されたという人物です。
まあ!続に言う現代のチンピラの親分といったところじゃないでしょうか?
こんな人柄の幡随院長兵衛と偉業と成し遂げた伊能忠敬の墓がきしくも並んでいるアンバランスがなんとも奇妙に思える瞬間でした。
さて源空寺ですが、結構由緒あるお寺さんです。宗派は浄土宗増上寺の末寺で円誉道阿が天正18年(1590)湯島(現文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まり、徳川家康も道阿に深く帰依したといいます。1590年の8月1日(八朔)に家康公が江戸に初入府した年です。慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然坊源空の名にちなみ「源空寺」と称しました。二世専誉直爾のとき、明暦3年(1657)の振袖火事の大火で類焼、当地に移転して現在に至っています。
山門を入ってすぐに立派な鐘楼と鐘が現われます。鐘は銅製のもので総高2.22mの大型のものです。台東区の有形文化財に指定されています。
源空寺の鐘楼と鐘
寛永12年(1636)三代将軍徳川家光の勧めをうけ、開山道阿が願主となり鋳造されたもので、徳川家康の法号「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」と同秀忠の法号「台徳院殿一品大相国公」、家光の官職・姓名「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」が刻まれている堂々としたものです。
日本史 ブログランキングへ
神社・仏閣 ブログランキングへ
お城・史跡 ブログランキングへ
このかっぱ橋本通りは浅草の国際通りから始まり、上野駅入谷近くの昭和通りまでの1.2キロにわたる道で、途中、調理器具や食器などを扱うたくさんの問屋さんが軒を連ねるかっぱ橋商店街を横切っています。
こんな「かっぱ橋本通り」は明治、大正の時代は浅草と上野を結ぶ幹線道路として大いに賑わっていたと言います。現在でもこの地域に住む方々の日常生活に欠かせない下町の風情を残した商店街として賑わいを見せています。
合羽橋の交差点を渡ると地名が「松が谷」と変わります。このあたりの「かっぱ橋本通り」の両側は商店街というよりはビルが立ち並ぶ住宅街へと姿を変えています。そして、特筆すべきはこの界隈には「石をなげれば寺にあたる」と言われるほど「寺院」が次から次へと現われる寺町を構成しているのです。門前の構えや本堂の姿を見るにつけ、なにやら由緒ありそうな寺院ばかりです。
そんな寺院が多数点在する中を歩きながら松が谷2丁目の交差点にさしかかります。この信号を左折し3ブロックほど行った角に、今日のお題の源空寺が静かな佇まいを見せているのです。
源空寺のご本堂
実はこの源空寺を訪れたのは、たまたまこの松が谷を散策している途中に偶然門前を通りかかった時に、その山門脇に伊能忠敬墓と幡随院長兵衛墓の石柱を見つけたからなのです。
源空寺門前の石柱
伊能忠敬については以前、門前仲町の富岡八幡の中で取り上げていますが、江戸末期に詳細な日本地図を編纂したことで知られているお方なのですが、「このお寺にお墓があったのか」と思いでお参りをしてきました。
そして驚いたことに歌舞伎の荒事で演じられるあの「幡随院長兵衛」の墓もこの源空寺にあるという。
さっそくまずは伊能忠敬のお墓に詣でることに!お墓は本堂のある敷地の脇の道を挟んで墓地が広がっています。特に墓地内の見取り図は掲示されていないのですが、それらしき墓はすぐにわかります。墓地内の細い道を進むと、なんと先に現われたのが「幡随院長兵衛」の墓!それもご夫妻の墓石が仲良く並んで建っています。
そして「幡随院長兵衛」の墓から数えて右へ2つ目に「伊能忠敬」の墓が建っているのです。
伊能忠敬の墓
幡随院長兵衛夫妻の墓
ここで幡随院長兵衛についてほんの少し説明いたしましょう。
江戸初期の1622年ころの生まれだそうです。実在の人物で本名を塚本伊太郎。肥前唐津藩(佐賀県)の武士の子だということです。この伊太郎が江戸へ出て花川戸(はなかわど:現在の浅草)に住み、幡随院長兵衛と名乗り「口入れ稼業」を営むかたわら、3千人の子分を抱える「町奴(まちやっこ)」の頭領として君臨していました。しかし対立する「旗本奴(はたもとやっこ)」の首領である水野十郎左衛門に殺されたという人物です。
まあ!続に言う現代のチンピラの親分といったところじゃないでしょうか?
こんな人柄の幡随院長兵衛と偉業と成し遂げた伊能忠敬の墓がきしくも並んでいるアンバランスがなんとも奇妙に思える瞬間でした。
さて源空寺ですが、結構由緒あるお寺さんです。宗派は浄土宗増上寺の末寺で円誉道阿が天正18年(1590)湯島(現文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まり、徳川家康も道阿に深く帰依したといいます。1590年の8月1日(八朔)に家康公が江戸に初入府した年です。慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然坊源空の名にちなみ「源空寺」と称しました。二世専誉直爾のとき、明暦3年(1657)の振袖火事の大火で類焼、当地に移転して現在に至っています。
山門を入ってすぐに立派な鐘楼と鐘が現われます。鐘は銅製のもので総高2.22mの大型のものです。台東区の有形文化財に指定されています。
源空寺の鐘楼と鐘
寛永12年(1636)三代将軍徳川家光の勧めをうけ、開山道阿が願主となり鋳造されたもので、徳川家康の法号「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」と同秀忠の法号「台徳院殿一品大相国公」、家光の官職・姓名「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」が刻まれている堂々としたものです。
日本史 ブログランキングへ
神社・仏閣 ブログランキングへ
お城・史跡 ブログランキングへ