大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

上野松が谷の古刹に眠る伊能忠敬と幡随院長兵衛【上野・松が谷源空寺】

2010年10月12日 17時39分07秒 | 台東区・歴史散策
賑やかな浅草の西の端六区の縁を走る国際通りの「公園六区入口」信号を渡ると、下町浅草の風情を残す「かっぱ橋本通り商店街」に足を踏み入れる。商店街に入ってすぐ右手には明治36年創業のどじょう料理の老舗「どぜう飯田屋」さんの趣のある店構えが見えてきます。店の入口に白地に墨文字で大きく「どぜう」と書かれた暖簾が粋な雰囲気を漂わせて掛けられています。
このかっぱ橋本通りは浅草の国際通りから始まり、上野駅入谷近くの昭和通りまでの1.2キロにわたる道で、途中、調理器具や食器などを扱うたくさんの問屋さんが軒を連ねるかっぱ橋商店街を横切っています。

こんな「かっぱ橋本通り」は明治、大正の時代は浅草と上野を結ぶ幹線道路として大いに賑わっていたと言います。現在でもこの地域に住む方々の日常生活に欠かせない下町の風情を残した商店街として賑わいを見せています。
合羽橋の交差点を渡ると地名が「松が谷」と変わります。このあたりの「かっぱ橋本通り」の両側は商店街というよりはビルが立ち並ぶ住宅街へと姿を変えています。そして、特筆すべきはこの界隈には「石をなげれば寺にあたる」と言われるほど「寺院」が次から次へと現われる寺町を構成しているのです。門前の構えや本堂の姿を見るにつけ、なにやら由緒ありそうな寺院ばかりです。

そんな寺院が多数点在する中を歩きながら松が谷2丁目の交差点にさしかかります。この信号を左折し3ブロックほど行った角に、今日のお題の源空寺が静かな佇まいを見せているのです。

源空寺のご本堂

実はこの源空寺を訪れたのは、たまたまこの松が谷を散策している途中に偶然門前を通りかかった時に、その山門脇に伊能忠敬墓と幡随院長兵衛墓の石柱を見つけたからなのです。

源空寺門前の石柱

伊能忠敬については以前、門前仲町の富岡八幡の中で取り上げていますが、江戸末期に詳細な日本地図を編纂したことで知られているお方なのですが、「このお寺にお墓があったのか」と思いでお参りをしてきました。
そして驚いたことに歌舞伎の荒事で演じられるあの「幡随院長兵衛」の墓もこの源空寺にあるという。

さっそくまずは伊能忠敬のお墓に詣でることに!お墓は本堂のある敷地の脇の道を挟んで墓地が広がっています。特に墓地内の見取り図は掲示されていないのですが、それらしき墓はすぐにわかります。墓地内の細い道を進むと、なんと先に現われたのが「幡随院長兵衛」の墓!それもご夫妻の墓石が仲良く並んで建っています。
そして「幡随院長兵衛」の墓から数えて右へ2つ目に「伊能忠敬」の墓が建っているのです。

伊能忠敬の墓

 

幡随院長兵衛夫妻の墓

ここで幡随院長兵衛についてほんの少し説明いたしましょう。
江戸初期の1622年ころの生まれだそうです。実在の人物で本名を塚本伊太郎。肥前唐津藩(佐賀県)の武士の子だということです。この伊太郎が江戸へ出て花川戸(はなかわど:現在の浅草)に住み、幡随院長兵衛と名乗り「口入れ稼業」を営むかたわら、3千人の子分を抱える「町奴(まちやっこ)」の頭領として君臨していました。しかし対立する「旗本奴(はたもとやっこ)」の首領である水野十郎左衛門に殺されたという人物です。
まあ!続に言う現代のチンピラの親分といったところじゃないでしょうか?
こんな人柄の幡随院長兵衛と偉業と成し遂げた伊能忠敬の墓がきしくも並んでいるアンバランスがなんとも奇妙に思える瞬間でした。

さて源空寺ですが、結構由緒あるお寺さんです。宗派は浄土宗増上寺の末寺で円誉道阿が天正18年(1590)湯島(現文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まり、徳川家康も道阿に深く帰依したといいます。1590年の8月1日(八朔)に家康公が江戸に初入府した年です。慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然坊源空の名にちなみ「源空寺」と称しました。二世専誉直爾のとき、明暦3年(1657)の振袖火事の大火で類焼、当地に移転して現在に至っています。

山門を入ってすぐに立派な鐘楼と鐘が現われます。鐘は銅製のもので総高2.22mの大型のものです。台東区の有形文化財に指定されています。

源空寺の鐘楼と鐘

寛永12年(1636)三代将軍徳川家光の勧めをうけ、開山道阿が願主となり鋳造されたもので、徳川家康の法号「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」と同秀忠の法号「台徳院殿一品大相国公」、家光の官職・姓名「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」が刻まれている堂々としたものです。



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お江戸の時を告げた「鐘」探し・その場所はかつての牢屋敷【その3・お江戸ご府内日本橋(本)石町】

2010年10月12日 10時34分53秒 | 中央区・歴史散策
浅草、上野とお江戸の代表的な「時の鐘」を別ページで紹介しましたが、シリーズ第3弾として日本橋石町の鐘を探してきました。とは言ってもこの鐘は本来の場所である石町ではなく、現在の地名である日本橋小伝馬町の一角に置かれています。かつての石町は小伝馬町から2丁(約180m)ほどの離れた場所にあった地名です。

それでは簡単に石町の鐘の変遷をお教えいたしましょう。
実はお江戸の時の鐘の始まりは開幕初期に遡ります。お江戸の大普請が始まる頃(1603年以降)、時の鐘は城鐘としてなんと江戸城内に置かれていたのです。慶長から元和へと時代が移り、城内で鐘撞きがうるさいということで、第2代秀忠公の御世にこの城鐘を内郭の外の日本橋石町に移したと記録されています。その際に新たに鐘を鋳造し鐘楼を造ったのが、江戸で最初の「時の鐘」とされています。 そして幕末まで日本橋石町で江戸の町に時を知らせていたわけです。維新後は時の鐘は廃止され、昭和5年に石町から小伝馬町の十思公園内に移設されました。

さて現在の地下鉄日比谷線小伝馬町の駅は賑やかな江戸通りに面した大きな交差点角に位置しています。江戸時代には幕府の牢屋があった場所としてよく知られている場所なんですね。
地下鉄駅出口から秋葉原方面に50mほど進むと左手に「大安楽院」が現われてきます。この大安楽院が建っている場所が江戸時代の牢屋敷があった場所で、その牢屋敷の中でも斬首刑を行っていた最も忌まわしい場所なのです。

大安楽院

維新後、牢屋敷の跡地はその祟りを恐れて誰も住むことなく、荒れ果てていたと言います。そんな状況を知ってか明治の財界の大物であった大倉喜八郎と安田善次郎が明治15年に寄進したのが、この大安楽院なのです。
だからお二人の名前の頭をとって「大安楽院」となったとのことです。

大安楽院の境内はそれほど広くはありません。狭い境内を取り囲む塀に挟まれるように「江戸伝馬町処刑場跡」と赤い文字で刻まれた石柱がなんとも薄気味悪く立てられています。
「江戸伝馬町処刑場跡」の石柱

また境内の中にも「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱が寂しげに立てられています。そして「江戸伝馬町牢御�頂場跡」のすぐ脇に祀られている。
「江戸伝馬町牢御�頂場跡」の石柱

延命地蔵の台座には山岡鉄舟の筆になる「為囚死群霊離苦得脱」という文字が刻まれています。「刑死したものたちの霊よ、苦しみを離れ、解脱を得よ」との意味なのでしょうか。更には牢屋敷の石積みに使われていた石が境内の隅に寂しく置かれています。
牢屋敷の石積の石

この大安楽院の正面門の路地を隔てて比較的広い公園があります。十思公園(じっし)と呼ばれています。この場所もかつての牢屋敷の敷地の一部だったのですが、この公園の中央部に、近代的なコンクリートの棟があって、その棟の上に大きな鐘が吊されているんです。
 
 


この鐘がかつて石町にあった江戸時代の「時の鐘」なのです。棟の上には螺旋階段で登っていけるようになっているようなのですが、残念ながら階段の入口は施錠され登っていくことはできません。

こんな云われのある十思公園にはこんな方の記念碑が公園の奥の木々に囲まれた薄暗い場所に置かれています。時は幕末、あの安政の大獄で捕縛され、伝馬町の牢屋敷で斬首刑となった「吉田松陰」の終焉の地と刻まれた碑石がひっそりと佇んでいます。
吉田松蔭終焉の地の石碑

安政の大獄では吉田松蔭の他に橋本左内、頼三樹三郎を含め100人近い勤皇志士が伝馬町の牢屋敷で露と消えていったのです。

忌まわしい刑が行われたかつての牢屋敷の敷地であったこの場所に移設された「時の鐘」は無念の情を抱いて旅立った方々の魂を鎮魂するかのように静かな公園の中にその姿を残していました。

尚、江戸時代には市中9ヶ所に時の鐘が置かれていたといいます。すでにブログで紹介した浅草浅草寺、上野寛永寺の他に、赤坂円通寺、市ヶ谷八幡宮境内、目白不動尊境内、四谷天龍寺、芝切通し、本所横川町と日本橋石町です。そして現在まで残っている鐘は上野寛永寺、浅草浅草寺、日本橋石町と四谷天龍寺の4鐘です。
近い内に四谷天龍寺の時の鐘を取材する予定です。

お江戸の時を告げた「鐘」探し【その1・お江戸浅草時の鐘】
お江戸の時を告げた「鐘」探し【その2・お江戸上野の山・旧寛永寺境内】





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