大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

隅田川のほとり・梅若権現御縁起ゆかりの名刹「木母寺」【お江戸・墨堤白髭、鐘淵】

2010年10月29日 20時11分29秒 | 墨田区・歴史散策
墨田区側の隅田河岸に点在する古刹、神社は数限りなくありますが、その中でさまざまな書籍に頻繁に登場する寺があるんです。その名を木母寺といいます。それほど有名なお寺ならば、一度はお訪ねしなければと、行ってきました。
当寺の在所は隅田河岸の白鬚(しらひげ)と言う。風情を残す言問界隈から隅田川墨堤を上流へと進むこと白髭まではかなりの距離があるのですが、白髭橋を越えると墨堤河岸の景色は一変してくるんですね。
かなり大きな公園(白鬚公園と呼ばれている)の中を抜けて歩くこと700mほど(私鉄の一駅位の距離がある)、やっと左手にお社が見えてくるのですが、これは隅田川神社。つい間違いそうなのですが、目指す木母寺はもう少し先なのです。古刹という先入観から、古めかしい佇まいのお寺さんと考えてしまうのですが、この期待を見事に裏切るような現代風の本堂が目の前に飛び込んできます。「ほんとうにお寺さんなの?」といった佇まいです。

 
木母寺全景

さてこのお寺がどうして有名なのか、というお話になるのですが、実は謡曲「隅田川」の舞台となっているからなのです。
※謡曲(ようきょく)とは「能」の歌詞の部分で謡(うたい)とも言っているものです。

この謡曲「隅田川」は室町時代の能役者、能作者でもある世阿弥の長男、観世十郎元雅作と言われているのですが、その物語の中にでてくる梅若山王権現という人物がここ木母寺に所縁があるのですが、実は江戸時代の初期までは梅若寺と称していたのです。

そして当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」には以下のような説話が記述されているとのことです。
「都の公家の子息梅若丸は、人買いにさらわれてここ東国に連れてこられ、隅田河畔で病のため12歳の若さで貞元元年(976)3月15日に亡くなったといいます。
そしていまわの際に詠んだ歌が「尋ね来て 問はば応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」。
そして翌年、我が子を探し求めてきた母親が隅田川のほとりで、息子梅若の霊と巡りあい、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永くその霊を弔うこととなった。という物語なのです。

「安寿と厨子王」に若干似ている物語ですが、梅若丸の場合は亡くなってしまったのですね。
木母寺は山号を梅柳山といい、天台宗に属する墨東第一の名刹です。開山は忠円阿闍梨で、平安中期の貞元元年(976)であったと伝えられています。古くは梅若寺といい、隅田院とも称しましたが天正18年(1590)家康によって、梅柳山の命名を得ています。
その後、慶長12年(1607)には、前関白近衛信尹が参詣の折、柳の枝を折って「梅」の字を分け「木母寺」として以来今日に至っています。

※天正18年(1590)の8月1日は家康公が江戸に初入府した年で、江戸時代を通じ「八朔の日」としてたいへん重要な行事が毎年御城で営まれていました。

前述のように現代風の本堂が建つ境内の一角にガラス張りの建物があります。このガラス張りの建物の中に「梅若念仏堂」が大切に保存されています。念仏堂の左隣には石積みの「梅若塚」が石柵に囲われ静かに佇んでいます。この塚は貞元元年(976)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)が築き、柳の木を植えて供養したものです。

念仏堂内部
念仏堂脇の梅若塚

また都内第一という巨碑が境内の一角に。伊藤博文の題字は約75cm角という大きさを誇ります。裏面には杉孫七郎の撰になる明治財界の雄・田中平八の略歴を記しています。







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