江戸の下町、門前仲町から清澄通りを北上し、仙台掘川に架かる海辺橋を渡るとすぐ右手の歩道脇に「滝沢馬琴生誕の地碑」が人知れず置かれている。
現在、海辺橋を渡る手前の地名は平野、清澄で橋を渡ると深川1、深川2へと変わります。そして橋名が「海辺」とあることから、海岸に近いかというと、現在の海岸線は遥か南へと後退し、海辺という橋名にそぐわない町並みが広がっています。
実はこの橋名の由来は、江戸幕府の開幕以前の慶長元年(1596)から元和元年(1615)にかけて、野口次郎左衛門という人物によってこの地域一帯が新田として開発され、海辺新田という地名が付されたことによります。海辺新田と呼ばれた地域は北は小名木川、東は永代新田、西は大川(隅田川)にまたがっています。そして開発を行った野口家は当地の名主を務め、寛保元年(1741)以降は海辺家を名乗りました。
その後、小名木川沿いは常陸、下総からの船運の船着き場として発展をし、深川海辺新町、深川海辺町と呼ばれるようになりました。江戸初期に開発された海辺新田も深川地区の開発が進むにつれて、新田の地域は狭くなっていきます。正徳3年(1713)には新田内に深川海辺大工町をはじめ新たに五町が成立し、町奉行支配下に置かれました。
また、江東区にはもう一つ「海辺」という町名があります。その場所は清洲橋通りを東へと走り、横十間川親水公園を跨ぐ岩井橋を渡る手前右手の狭い地域です。ただし前述の江戸時代に開発された海辺新田の地域には含まれていないエリアです。
江戸時代にこの岩井橋付近には「砂村掘(すなむらおんぼうぼり)」と呼ばれていた「焼場」と「阿弥陀堂」があり、江戸市中から遠く離れた人気のない寂しい場所でした。
とは火葬に従事する人のことをいいます。
そんな場所柄から江戸の世話物話を完成させた四世鶴屋南北は怪談話にふさわしい場所として、掘を取り上げています。
南北の代表作である「東海道四谷怪談」では戸板にくくりつけられたお岩と小仏小平が掘に流れ着いた場面を描いています。
それでは本題の滝沢馬琴の話に戻りましょう。ご存知、江戸時代後期の戯作者として知られている滝沢馬琴こと曲亭馬琴は明和4年(1767)にここ深川(現在の平野1-7付近)で生まれました。当時深川のこの地には、旗本・松平信成の屋敷があり、馬琴の父は松平家の使用人だったと伝えられています。馬琴は安永4年(1775)に父を亡くし家督を継ぎますが、安永9年(1780)年、馬琴15歳の時に松平家を辞し放浪生活に入り、さまざまな職を転々としながら、この地から僅かな距離にある門前仲町に居を構えます。そして寛政2年(1790)に黄表紙・洒落本で一世を風靡していた山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りし、自らも戯作者として地位を固めていきます。
山東京伝は馬琴より6歳年上で、宝暦11年(1761)に深川の木場で生まれています。京伝は当時の遊郭を舞台にした洒落本を流行らせた人物です。俗にいえば江戸時代の軟派文学の代表格です。あまりの軟派文学であったことから、松平定信の寛政の改革の出版統制で、手鎖50日間の刑に処せられています。
滝沢馬琴(曲亭馬琴)と言えば、その代表作は言うまでもなく「南総里見八犬伝(奥書)」でしょう。馬琴のライフワークともいえる超大作で、文化11年(1814)から天保13年(1842)まで、28年をかけて書き上げています。執筆中、馬琴は晩年に失明しながらも、息子の嫁に口述筆記させて死の直前まですざましい執念で完結させたと言います。そのボリュームは全98巻106冊という膨大なものです。
ここ深川に建てられた生誕の地碑はこの「南総里見八犬伝(奥書)」の本を積み上げた形をしています。106冊を2つの山に分けて積み上げた形の碑です。
秋深まりゆく10月の半ばにもかかわらず、碑の傍らにまだ青々と生える雑草が碑にもたれかかり、普通でも目立たない碑がさらに目立たない存在になっていました。
余談ですが、この馬琴先生はなんと副業で薬まで販売していたのをご存知ですか。奇応丸とか神女湯と言われたものらしいですよ。有名作家の暮らしも楽ではなかったようです。
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現在、海辺橋を渡る手前の地名は平野、清澄で橋を渡ると深川1、深川2へと変わります。そして橋名が「海辺」とあることから、海岸に近いかというと、現在の海岸線は遥か南へと後退し、海辺という橋名にそぐわない町並みが広がっています。
実はこの橋名の由来は、江戸幕府の開幕以前の慶長元年(1596)から元和元年(1615)にかけて、野口次郎左衛門という人物によってこの地域一帯が新田として開発され、海辺新田という地名が付されたことによります。海辺新田と呼ばれた地域は北は小名木川、東は永代新田、西は大川(隅田川)にまたがっています。そして開発を行った野口家は当地の名主を務め、寛保元年(1741)以降は海辺家を名乗りました。
その後、小名木川沿いは常陸、下総からの船運の船着き場として発展をし、深川海辺新町、深川海辺町と呼ばれるようになりました。江戸初期に開発された海辺新田も深川地区の開発が進むにつれて、新田の地域は狭くなっていきます。正徳3年(1713)には新田内に深川海辺大工町をはじめ新たに五町が成立し、町奉行支配下に置かれました。
また、江東区にはもう一つ「海辺」という町名があります。その場所は清洲橋通りを東へと走り、横十間川親水公園を跨ぐ岩井橋を渡る手前右手の狭い地域です。ただし前述の江戸時代に開発された海辺新田の地域には含まれていないエリアです。
江戸時代にこの岩井橋付近には「砂村掘(すなむらおんぼうぼり)」と呼ばれていた「焼場」と「阿弥陀堂」があり、江戸市中から遠く離れた人気のない寂しい場所でした。
とは火葬に従事する人のことをいいます。
そんな場所柄から江戸の世話物話を完成させた四世鶴屋南北は怪談話にふさわしい場所として、掘を取り上げています。
南北の代表作である「東海道四谷怪談」では戸板にくくりつけられたお岩と小仏小平が掘に流れ着いた場面を描いています。
それでは本題の滝沢馬琴の話に戻りましょう。ご存知、江戸時代後期の戯作者として知られている滝沢馬琴こと曲亭馬琴は明和4年(1767)にここ深川(現在の平野1-7付近)で生まれました。当時深川のこの地には、旗本・松平信成の屋敷があり、馬琴の父は松平家の使用人だったと伝えられています。馬琴は安永4年(1775)に父を亡くし家督を継ぎますが、安永9年(1780)年、馬琴15歳の時に松平家を辞し放浪生活に入り、さまざまな職を転々としながら、この地から僅かな距離にある門前仲町に居を構えます。そして寛政2年(1790)に黄表紙・洒落本で一世を風靡していた山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りし、自らも戯作者として地位を固めていきます。
山東京伝は馬琴より6歳年上で、宝暦11年(1761)に深川の木場で生まれています。京伝は当時の遊郭を舞台にした洒落本を流行らせた人物です。俗にいえば江戸時代の軟派文学の代表格です。あまりの軟派文学であったことから、松平定信の寛政の改革の出版統制で、手鎖50日間の刑に処せられています。
滝沢馬琴(曲亭馬琴)と言えば、その代表作は言うまでもなく「南総里見八犬伝(奥書)」でしょう。馬琴のライフワークともいえる超大作で、文化11年(1814)から天保13年(1842)まで、28年をかけて書き上げています。執筆中、馬琴は晩年に失明しながらも、息子の嫁に口述筆記させて死の直前まですざましい執念で完結させたと言います。そのボリュームは全98巻106冊という膨大なものです。
ここ深川に建てられた生誕の地碑はこの「南総里見八犬伝(奥書)」の本を積み上げた形をしています。106冊を2つの山に分けて積み上げた形の碑です。
秋深まりゆく10月の半ばにもかかわらず、碑の傍らにまだ青々と生える雑草が碑にもたれかかり、普通でも目立たない碑がさらに目立たない存在になっていました。
余談ですが、この馬琴先生はなんと副業で薬まで販売していたのをご存知ですか。奇応丸とか神女湯と言われたものらしいですよ。有名作家の暮らしも楽ではなかったようです。
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