大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

こんな所にあった!江戸の戯作者「滝沢馬琴」生誕の地碑【お江戸深川・清澄白河】

2010年10月17日 20時26分38秒 | 江東区・歴史散策
江戸の下町、門前仲町から清澄通りを北上し、仙台掘川に架かる海辺橋を渡るとすぐ右手の歩道脇に「滝沢馬琴生誕の地碑」が人知れず置かれている。



現在、海辺橋を渡る手前の地名は平野、清澄で橋を渡ると深川1、深川2へと変わります。そして橋名が「海辺」とあることから、海岸に近いかというと、現在の海岸線は遥か南へと後退し、海辺という橋名にそぐわない町並みが広がっています。

実はこの橋名の由来は、江戸幕府の開幕以前の慶長元年(1596)から元和元年(1615)にかけて、野口次郎左衛門という人物によってこの地域一帯が新田として開発され、海辺新田という地名が付されたことによります。海辺新田と呼ばれた地域は北は小名木川、東は永代新田、西は大川(隅田川)にまたがっています。そして開発を行った野口家は当地の名主を務め、寛保元年(1741)以降は海辺家を名乗りました。
その後、小名木川沿いは常陸、下総からの船運の船着き場として発展をし、深川海辺新町、深川海辺町と呼ばれるようになりました。江戸初期に開発された海辺新田も深川地区の開発が進むにつれて、新田の地域は狭くなっていきます。正徳3年(1713)には新田内に深川海辺大工町をはじめ新たに五町が成立し、町奉行支配下に置かれました。

また、江東区にはもう一つ「海辺」という町名があります。その場所は清洲橋通りを東へと走り、横十間川親水公園を跨ぐ岩井橋を渡る手前右手の狭い地域です。ただし前述の江戸時代に開発された海辺新田の地域には含まれていないエリアです。
江戸時代にこの岩井橋付近には「砂村掘(すなむらおんぼうぼり)」と呼ばれていた「焼場」「阿弥陀堂」があり、江戸市中から遠く離れた人気のない寂しい場所でした。
とは火葬に従事する人のことをいいます。
そんな場所柄から江戸の世話物話を完成させた四世鶴屋南北は怪談話にふさわしい場所として、を取り上げています。
南北の代表作である「東海道四谷怪談」では戸板にくくりつけられたお岩小仏小平が掘に流れ着いた場面を描いています。

それでは本題の滝沢馬琴の話に戻りましょう。ご存知、江戸時代後期の戯作者として知られている滝沢馬琴こと曲亭馬琴は明和4年(1767)にここ深川(現在の平野1-7付近)で生まれました。当時深川のこの地には、旗本・松平信成の屋敷があり、馬琴の父は松平家の使用人だったと伝えられています。馬琴は安永4年(1775)に父を亡くし家督を継ぎますが、安永9年(1780)年、馬琴15歳の時に松平家を辞し放浪生活に入り、さまざまな職を転々としながら、この地から僅かな距離にある門前仲町に居を構えます。そして寛政2年(1790)に黄表紙・洒落本で一世を風靡していた山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りし、自らも戯作者として地位を固めていきます。

山東京伝は馬琴より6歳年上で、宝暦11年(1761)に深川の木場で生まれています。京伝は当時の遊郭を舞台にした洒落本を流行らせた人物です。俗にいえば江戸時代の軟派文学の代表格です。あまりの軟派文学であったことから、松平定信の寛政の改革の出版統制で、手鎖50日間の刑に処せられています。

滝沢馬琴(曲亭馬琴)と言えば、その代表作は言うまでもなく「南総里見八犬伝(奥書)」でしょう。馬琴のライフワークともいえる超大作で、文化11年(1814)から天保13年(1842)まで、28年をかけて書き上げています。執筆中、馬琴は晩年に失明しながらも、息子の嫁に口述筆記させて死の直前まですざましい執念で完結させたと言います。そのボリュームは全98巻106冊という膨大なものです。




ここ深川に建てられた生誕の地碑はこの「南総里見八犬伝(奥書)」の本を積み上げた形をしています。106冊を2つの山に分けて積み上げた形の碑です。
秋深まりゆく10月の半ばにもかかわらず、碑の傍らにまだ青々と生える雑草が碑にもたれかかり、普通でも目立たない碑がさらに目立たない存在になっていました。

余談ですが、この馬琴先生はなんと副業で薬まで販売していたのをご存知ですか。奇応丸とか神女湯と言われたものらしいですよ。有名作家の暮らしも楽ではなかったようです。





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上野のお山に残る徳川将軍家御霊屋の勅額門点描【お江戸上野・寛永寺】

2010年10月17日 17時31分44秒 | 台東区・歴史散策
浅草と並ぶ都内の観光地として、一二を争う人気スポット上野は江戸時代から庶民の遊山地として親しまれてきました。現在の上野の山全域は正式名を「東京都立上野恩賜公園」と呼ばれ、芸術、文化、みどり、景観、観光の様々な分野で重要な役割をもって、多くの人たちの憩いの場を提供しています。

そんな上野公園がある「上野のお山」は江戸時代の寛永の御世以降、その全域が徳川家の菩提寺である天台宗「東叡山・寛永寺」の寺領だったのです。寛永寺は寛永2年(1625年)、3代将軍家光公の御世に建立され、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とし、東叡山寛永寺円頓院と号しました。
開基(創立者)は家光公、開山(初代住職)は天海僧正、本尊は薬師如来(重要文化財)です。
開山以来、江戸末期までは、寺域約120万㎡(上野公園の約2倍)という将軍家菩提寺にふさわしい規模を誇り、大小百近い塔中・子院が上野の山に点在し、荘厳な堂塔伽藍が整然と配置されていました。しかし幕末の戊辰戦役の流れの中で、幕府軍である彰義隊と官軍の戦いで壮麗な伽藍のほとんどを焼失してしまいました。そして、その後の明治政府の政策により、かつての広大な境内敷地も大幅に縮小されてしまい、現在では江戸時代の最盛期の広さの1/10程度となってしまいました。

その数少ない寛永寺及び徳川家所縁の遺構を求めて上野の山(上野恩賜公園)へ遊山と洒落込みました。
京成上野駅から続く階段をのぼり、上野公園のなだらかな坂道を進んでいくと、まず現われるのが清水観音堂のお堂が見えてきます。国指定の重要文化財ですが、京都の清水寺を模し、前面に広がる不忍池は琵琶湖を形どっていると言われています。
そして更に歩を進めると、かつて上野大仏が鎮座していた小高い丘とその丘に相対してお江戸の「時の鐘」の鐘楼が木々の中に聳えています。この小山を回り込むように進むと、「お化け燈篭」と呼ばれる巨大な石燈篭が現われてきます。

お化け燈篭

この石燈篭の先に家康公を祀る上野東照宮の鳥居が建ち、参道へと繋がっていきます。

上野東照宮の鳥居
東照宮参道に並ぶ石燈篭
東照宮入口を飾る権現様式の唐門

参道の両側には上野東照宮の境内からは寛永寺さんの五重塔が見えるのですが、この五重塔は上野動物園の敷地内にあるため、間近に見るためには入場料を払って動物園に入らなければなりません。
上野東照宮をあとにして、国立博物館正面入口に通じる噴水広場を進んでいきましょう。
噴水広場を抜けて、まずは開山堂へと向かいましょう。両大師堂と呼ばれ、慈恵大師(良源)、慈眼大師(天海)の両大師を祀っています。

両大師堂山門
両大師堂ご本堂

四代将軍家綱公の出生に際し安産祈願所となって以来、子授け大師として信仰を集めています。そして両大師堂の山門の右隣には旧本坊表門(国指定重要文化財)が保存されています。寛永年間の建立で別名黒門と呼ばれています。本坊は上野戦争(彰義隊戦争)で全焼し、門の随所に残る銃痕が当時の戦禍を物語っています。

それでは本日のお題の「徳川将軍家御霊屋のご門」を探るために国立博物館と両大師堂の間の道を下っていきましょう。道の左側は国立博物館を囲む長い塀が続きます。それまでの上野公園の雰囲気とはがらりと様子が変わり、静かな空気が流れているような気がします。
前方に墓地が見えてきます。寛永寺さんの墓地が広がっています。ちょうど国立博物館の裏側に当たる場所です。この国立博物館裏手の道の傍らに見事な「ご門」が見えてきます。色鮮やかな朱色で塗られた門ですが、見るからに由緒ありそうな姿を見せています。
実はこのご門は4代家綱公(厳有院)の霊廟前に置かれていた「勅額門」です。勅額門とは時の天皇が自ら書いた将軍の院号額を掲げた門のことをいいます。

4代家綱公(厳有院)の勅額門(重文)

このご門の背後には徳川家一族のお墓が広がっているはずなのですが、この墓域には誰でもが勝手に入れる訳ではありません。さらに道を進んでいくと前方に門が現われます。入っていいものか迷うのですが、この門は寛永寺さんの根本中堂への裏口と考えていいでしょう。この門を入り、右方向へ回り込むように進むと、前方にこれまた由緒ありそうな「ご門」が見えてきます。

近づいてみるとまさしく由緒あるご門です。5代将軍綱吉公(常憲院)の霊廟前に置かれていた勅額門です。

5代将軍綱吉公(常憲院)の勅額門(重文)

かつての徳川将軍家の墓域にあった御霊屋(霊廟)や勅額門、惣門の大部分は先の大戦で米軍の空襲により焼失してしまったのです。かろうじて焼け残ったのが、今私たちが見ることができるこれらのご門です。

ここ寛永寺の徳川将軍家墓域には4代家綱公、5代綱吉公、8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公の各将軍が眠っています。そして13代家定公の正室「天璋院篤姫様」も夫の家定公の宝塔に連れ添うように並んで眠っています。尚、現在寛永寺の各将軍の宝塔が並ぶ墓域は一般公開されていません。

5代将軍綱吉公(常憲院)の霊廟前に置かれていた勅額門を後に、寛永寺の根本中堂へと進んでいきましょう。

寛永寺・根本中堂

実は今ある根本中堂は明治になってから川越市の喜多院の本地堂を移したもので、寛永15年(1638)の建造と伝えられています。江戸時代の寛永寺・根本中堂は国立博物館に続くあの広い噴水広場にあったのですが、彰義隊戦争で焼失し、その後現在の場所に移ってきたものです。

わずか150年前まではこの上野の山全域は将軍家の重要な菩提寺である寛永寺の寺領でした。時代の歯車は260年の長きに渡った徳川の世を明治という新しい時代へと大きく変えてしまいました。その過程で壮麗な寛永寺伽藍は官軍のアームストロング砲の絶大な威力のもとで破壊、そしてそのほとんどが焼失してしまうのです。

私はいつも思うのですが、「もし」という言葉が許されるのであれば、あの上野戦争と太平洋戦争がなければ、東京には世界遺産に登録されてもおかしくない歴史的建造物があまた存在し、私たち日本人が世界に誇れる貴重な歴史遺産として私たちの目を楽しませてくれたのではないかと…。





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